西沢淳男『代官の日常生活:江戸の中間管理職』

代官の日常生活 (講談社選書メチエ)

代官の日常生活 (講談社選書メチエ)

 江戸時代に実際に幕領の支配をになった代官たちの職務や生活を総合的に描き出した本。旗本最低ランクの階層が担当する職務であり、政権の交代や地方での騒動などによって、わりあい簡単に首が飛ぶ状況とか、実際の村落との連絡や書類の作成は、下僚の手代や手付がになっていた状況を明らかにする。本書を読むと、代官って結構リスクが高いなあと感じる。
 戦国時代から、ある程度出世した家臣は、領地を貰って、そこの収入で軍団を組織するのが最大の奉仕であり、主君の身の回りや直接の領地支配は、下級の家臣が担当する形だったそうだ。このような、家臣団の構造は、徳川幕府の時代に入っても踏襲されたと。本書でも、代官の息子が軍艦奉行になった事例が紹介されているが、実務を担当する中下級武士層が、テクノクラートとして明治政府にも採用されて、近代の官僚の元になったと。本当の上級家臣はともかく、半端に知行の大きかった武士は、明治以後の再就職が厳しかっただろうな。


 第一章は全体的な代官の職務やどのような経歴をたどるかという話。現場にはほとんど権限がなく、勘定所へ報告して支持を受けることが多いこと。150俵以下の旗本としては最低ランクの人々が中心であること。様々な身分の人が登用された状況。大半が代官を歴任して、生涯を終えるか引退しているが、一部の出世した人々は、勘定所関係の職で儀礼の時に「布衣」を着られるランクの職まで上がっていることなど。
 第二章は、江戸時代を通しての、代官の時系列的変化。徳川幕府初期には、代官頭と呼ばれる伊奈忠次大久保長安ら土木の技術を持ったテクノクラートを中心に、在地の土豪層を登用して支配を任せたり、上方の流通要地等では大商人に任せたり、といったことが行われていた。これらの納税請負的な代官職は代々相続され、その結果、汚職や年貢の流用による負債(引負)を招いたという。これが、傍系である五代将軍綱吉の時代に、大規模に整理されることになる。ここで、館林時代に新規召抱えの人々を中心に、中央派遣の代官へと変化していく。この後も、「改革」の度にバッサバッサと首を切られる代官たちの状況がなかなか怖い。また、新たに百姓や下級武士からの登用も盛んに行われた状況も紹介される。
 第三章は、林長孺の日記をもとに、任命から赴任、陣屋での生活などを紹介している。しかしまあ、一読すると任命から赴任までにものすごく金がかかっているのが印象的。関係者への贈答や旅行中の饗応などに対する返礼に金を出したり。あとは、この林長孺は儒学者なのだが、それだけに「徳治」的なレトリックがあるが、実際のところこういうのって、統治される側の人々にはどう受け取られていたのだろうか。あと、実際の書類仕事は、基本的には手代などの下僚がやるので、代官は意外とのんびりした仕事ぶりであるというのも興味深い。
 第四章は、江戸に在住し、任地に赴かない代官の生活。関東周辺の領地の支配をまかされた代官は、現地に行かず江戸にいたまま仕事をするのが普通だったようだ。竹垣直道・直清親子が残した日記を中心に、その生活が紹介される。代官所での勤務や将軍の鷹狩の準備、同じ階層の旗本間の交友関係、死と相続、財政関係など。代官や勘定所の同階層の家を中心にネットワークを形成し、ポスト獲得の運動や急死した場合の始末など、連名で働きかけを行っていた状況。また、代官が出費がかさむポストでありながら、それなりに蓄財している代官もいて、そのような収入のもとは、地域開発のために公的貸付が行われ、その利子の一割が代官の収入になっていたことや、屋敷地や町屋などの不動産の運用からの収入などであったことが紹介される。
 第五章は、代官が直面する危機について、人事問題・災害・負債などが紹介される。実務を担う手代は、武士でない人間を雇うが、彼らが支配地の上層と結託して汚職に手を染める事例が多かったという。賄賂によって蓄財した事例や素行の悪い話がいろいろと紹介される。しかも、横のつながりが強く、厳しく罰したりすると欠員の補充ができなくなったりという事態になるため、放置せざるを得なかったという。このような状況に対応するために、御家人身分の手付という役職を創設したり、給金を増やしたりという対応がなされたが、なかなか思うに任せなかったという。災害については、前出の林長孺が安政元年の駿河湾での地震で行った対応を中心に、紹介される。江戸の勘定所からの命令を待たずに、独断で様々な救援対策を取っている状況が紹介される。最後は、借金の問題。代官は無限責任の請負のようなもので、転任時に職務上の問題などで借金があったりすると、処罰されることが多かったという。このため、転任を拒否して自殺したり、規定以上の税を取って糾問されたりといったことがあったという。
 まさに悪代官というような、私腹を肥やした例は公的な記録からは見当たらず、むしろそういうのは代官の下僚の手代たちの仕業が多かったというのが、あとがきで指摘される。


 以下、メモ:

 江戸時代初期における代官は本来地方巧者というテクノクラートであるため、検地や新田開発、用水・灌漑整備等々の専門技術の継承という意味からも基本的に世襲されていくことが多かった。しかし、第二章で詳述するが、幕初からの代官がリシャッフルされる中期以降は代官職を継承していくことはきわめて難しくなっていた。これはなにも代官だけのことではなく、勘定の世襲率を見ても三代つづいた家が二割程度ときわめて低かったのである(水谷三公『江戸の役人事情』)。
 江戸中期以降の世襲率をみると、代官職が本人のみである家は八一パーセントであり、大半が代官職を継承していくことはなかった。二代つづいた家を見ても一二パーセントであり、つまり九割以上の家が本人と子の二代限りの代官であったということができる。p.54-5

 このあたり興味深いな。人材が次々と交代していった状況。屋敷を役所に改造したり、赴任のために200両、年貢に不足分が出たりすると借金で穴埋めとか、なかなか難しい役職だったようだ。

 寺西封元は、就任翌年に五〇〇〇両の公金を借り受け、これを近郷の私領農村へ年利一〇パーセントで貸し出し、この金利五〇〇両をもって復興にあたったのである。早川正紀の場合は、久世在任中五八〇〇両を貸し付けている。竹垣直温は、三万五〇〇〇両を貸し付け、三〇〇〇両の手当を捻出している。農村復興に充分な予算措置のできない幕府は、公金を各代官から近隣諸藩の豪農等に貸し付け運用させて、その利金を財源とさせるとともに、利金の一〇パーセント程度を事務手数料として貸し付け代官の手元に残るようにした。これにより代官の財政的な補填ともしたのである。また、この公金をどのくらい引き出せるかも代官の手腕であった。p.82

 公金貸し付けによる地方財政の財源確保。そう言えば、熊本藩でも、通潤橋などの公共事業には、藩からの貸付で賄ったという話があったような。

 馳走とは、近世ではおいしい料理でもてなすことではなく、儀礼的饗応を指す。日記には具体的な記載はないが、おそらく円錐状に砂を盛って、いつでも砂を蒔いて整える用意があることを示す「盛砂(立砂)」、道を整備してある、清めてあることを示す「蒔砂」、水を打って清めたことを示す「手桶」、掃いて清めたことを示す「箒」といった「馳走」(道を掃除=清めたことを象徴的に示すものを置く行為)もおこなわれていたと思われる。これは、儀礼対象者によって、すべて、あるいは一部といったようにランク分けされていた(久留島浩「盛砂・蒔砂・飾り手桶・箒」)。p.122

 へえ。

 ここで、代官仲間の交流の一つとしての養子縁組について見てみたい。正確な姻戚関係を調査したわけではないが、「寛政重修諸家譜」という旗本の家譜をながめていくと、じつに多くの代官が勘定所関係職員あるいは同僚代官との姻戚関係にあることに気づく。基本的には、同役との婚姻は禁止されていたが、有名無実化していた。これは勘定所という巨大官庁組織を動かす技官グループを形成していたことを意味する。p.174

 こういう実務官僚層が婚姻関係を作って門閥化するってのは、あちこちでみられるような。

 島田順蔵は、騒動で混乱した飛騨を立て直すための先兵として見込まれ、送り込まれたわけであるから、相当厳格であったのであろう。つまり、百姓たちにとって都合のよい役人、取り入りやすい人物を置きたいと考え、百姓にとって取り入り難い役人、厳格な人物には、虚構により排斥運動も起こす、そんなしたたかな百姓の姿も見えてくる。
 とすると、訴状でおきまりのように愚昧百姓と謙る彼らは、「平生御百姓無情之夜遊び、朝ねを好ミ大食ヲいたし腹太ニ相成居候者」(凶年日記」)を棚に上げて、責任を代官に転嫁し「悪代官」像を仕立てていった、そのような気もするのである。p.229

 まあ、幕府と地域社会のせめぎ合い、政治的交渉の接点となっただけに、いろいろな色が付いたことは確かだろうな。江戸時代には、それぞれの集落がそれなりの軍事的実力をもっていたから、あんまり無茶すると一揆を起こされるんだよな。