- 作者: 山田雄司
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
- 発売日: 2016/04/26
- メディア: 単行本
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構成は、戦国時代に至る「忍び」の流れ。兵法の中から忍術が分離してくる流れ。忍術書の内容の紹介。江戸時代の忍者。最後は、近代の変容。
古くから、諜報や偵察を行う人間は存在したが、明確な形で出てくるのは室町時代後期くらいから。伊賀・甲賀が忍者の代表となったのは、京都に近い地域で活躍したためでもあるのだろう。あとは、修験道・山伏の山歩きや薬品知識を吸収して、潜入や焼討に長けていたこと。本書では言及されていないが、山地で、人口扶養力に限界があって、積極的に傭兵稼業を行わざるを得なかった地勢も影響しているのではないだろうか。
戦国時代には、各地の戦国大名が、国境地帯で偵察や破壊工作を行う乱波や草と称される人々を雇っていた。このあたりは、盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』にも、詳しい。大体は、対外諜報、国内治安維持、斥侯、破壊工作や奇襲を行う特殊部隊といった各種機能を担っていたと。むしろ、戦場での偵察、本隊の援護といった部分が強調されているのが、江戸時代の忍者と違う感じかな。
伊賀・甲賀の「忍者」は、内外の情報収集や潜入が表芸と言った感じだし。
そういえば、風魔忍群というと、名前だけは聞いたことがあるけど、まるっきりフィクションではなくて、北条氏が風間と呼ばれる乱波集団を雇っていたのだな。実在したんだ。
第3章は、兵法書の話。古代から入ってきていた孫子などの中国兵法書が受容されつつも、あまり広がりを見せなかったこと。中世に入ると、寺社で、修験道の要素を大きく取り込んだ「日本的兵法書」が編纂されるようになる。戦場で便利なおまじない集といった趣の本だが、極限状態で精神的に頼るものとして考えるべきと。知のセンターとしての密教寺院というのは、伊藤正敏『日本の中世寺院:忘れられた自由都市』『寺社勢力の中世:無縁・有縁・移民』あたりとつながりそうな話だな。兵学の研究も行われていたと、書いてあったような。
戦国時代末期になると、近世的なスタイルの軍学書が出現。そこから、忍術書も分離してくると。軍学においても、諜報偵察は重要な要素であった。また、忍術書がかかれた背景として、泰平の時代に、情報収集の技能などが失われていく危機感があったことが紹介される。
第3章は忍術書の内容の紹介。忠誠心が強調されるようになるのは、忍者が武士化したというか、近世の体制に順応していったというか。戦国時代までとは、変わってきたとは言えそう。
あと、戦国時代の草とか、忍と言われる人々は、野戦での待ち伏せ、襲撃の比重が大きかったが、江戸時代になると、建物への潜入が忍者の表芸になった感じかな。氏家幹人『古文書に見る江戸犯罪考』では、軽業の技術があれば、割と簡単に大名屋敷に侵入できそうといった感じだったが、やはり重要な情報を得ようと思えば、警戒厳重な藩主の屋敷などに侵入する必要があると言うことか。
落としたり、捨てていく可能性があるだけに、道具類は最低限にしなくてはならない。犬が最大の脅威。潜入のノウハウもおもしろい。
あとは、体の鍛え方とか、情報伝達とか、道具とか。
第4章は近世の忍者。伊賀・甲賀の者たちが、多数抱えられるようになる。本能寺の変の時の家康の伊賀越えや、服部半蔵とのかかわりについては、後代に由緒を語る上で創作された側面があると。
関ヶ原、大坂夏冬の陣、島原の乱に、動員。偵察や潜入を行っていると。幕末にも、諸家の忍が、各地に派遣されて情報収集を行っている。
諸大名家でも、忍びが特定の街区に集住していて、事件があったときには情報収集を行っている。あるいは、道場が開かれ、忍術の伝授が行われていたとか、各地に流派が出来ていったとか。全国の忍術流派なんてサイトがあるな。熊本では、大江流というのがあるそうな。
最後は、近代に入ってからの展開。
フィクションにおける妖術使いとしての忍者から、心霊ブーム、「科学的」研究の流れ。ナショナリズムと結びついた忍耐を説く本としての、忍者本。
さらに、現在につながる「忍術流派」の伝承。というか、藤田西湖をはじめ、現在に続く忍術の関係者が、誰も彼も胡散臭いのだが…
藤田西湖の心霊ブームに乗った「霊能力者」から、忍術へと移っていく流れが印象的。
以下、メモ:
『訓閲集』は享保元年(一七一六)に版行された『本朝武芸小伝』によると、醍醐天皇の時に大江維時が入唐して六韜・三略・軍勝図四十二条を得て帰朝して秘していたところ、和字の書を作って『訓閲集』と号したと言う。その真偽についいては触れないが、室町時代に弓馬礼法によって幕府に仕えた甲斐源氏の小笠原家に伝えられ、小笠原氏隆から上泉信綱を経、信綱は嫡子の秀胤に新陰流剣術とともに新陰流軍学を相伝した。秀胤は武田信玄に仕えた岡本半助にそれを伝え、半助の弟子で徳川家康の家臣小幡景憲は、『甲陽軍艦』に記される信玄の戦法と『訓閲集』的軍配を合わせて甲州流軍学を大成した。そしてそれをもとに北条流や山鹿流などの近世軍学が誕生した。p.101
剣術と軍学って、近いところにあったんだな。
その他、「忍術」を伝えていると称した甲賀流忍者の小林小太郎などが知られているが、一昔前までは、伊賀流や甲賀流を名乗る忍術使いの人々が村をまわってきて、鉄棒を曲げたり、熱湯の中に手を入れたりして「忍術」を披露することがあった。これらの人々がどのような系譜をもっていたのかわからない。近代社会において「忍術」が見世物として人気を博し、子どもたちをわくわくさせていったことも忍術の一側面である。p.255
大道芸としての忍術。湯に手を入れるって、なんか山伏っぽい芸風のような。