菊地浩之『徳川家臣団の謎』

徳川家臣団の謎 (角川選書)

徳川家臣団の謎 (角川選書)

 財閥系図の人の、戦国時代モノ。
 松平家の系譜や家臣団の形成を、段階を追って明らかにしていく。しかしまあ、偉くなってから作られた系図は、自家の由緒を装飾してしまうため、正確性に疑問符がつくと。国衆クラスでも、分からないことだらけなんだな。
 謎に包まれた室町時代徳川家の歴史を、翻刻史料や現在の研究書を手がかりに読み解いていくと。とりあえず、地理にも、人名的にも、不案内なところに滝のように情報を突っ込まれて、消化し切れていない。


 前半は、松平家=徳川家の歴代の歴史を再構成。
 最初の三代くらいの系譜のあやふやさとか、「十四松平」が、一部は擬制的同族関係なのではないかという指摘。そして、天下人となった安城松平家が、庶流で、嫡流の岡崎松平家を乗っ取った形になると。「松平一門連判状」が一門の姿を知る重要な史料と。
 で、現代の徳川家につながる世良田清康と「三御譜代」の重要性。最初に、岡崎の松平家の一部を長略して、山中城を攻略。清康は城主になる。そのときの家臣の「山中譜代」。その後、岡崎の松平家家臣団の推戴をうけて、岡崎城主に。そのときに加わった家臣が「岡崎譜代」。最終的に、安城松平家の当主が清康に当主の地位を譲って、両家が合一。安城譜代も清康の配下に。松平家家臣団には、三つの派閥が存在し、それが、その後の歴史に影響すると。
 清康が戦地で急死、次の広忠は、桜井松平信定に追い出させ、今川氏の力を借りて岡崎城に戻る。その際、岡崎の松平家臣団の暗闘。そして、広忠死後は、今川義元の西方進出の拠点として、接収。松平家の家臣団も再編成され、有力家臣や一門が、今川直臣扱いになってしまう。その中で、桶狭間で義元が討死して、家康の独立活動が始まると。
 家康が独立、拡大していく過程で、家臣団が再編成されていく。西三河を統一する段階では、一門や有力家臣などの国衆クラスの軍団を投入して、敵対的国衆の制圧を行う。そこから、「三備」軍制へと展開。有力国衆を東の酒井忠次と西の石川家成の二組に変成。家康直率の旗本備を編成。これによって、中下級の家臣を抜擢することが可能になり、本多忠勝榊原康政大久保忠世らが徳川軍の中核になることを可能とした。

 家康は、遠江駿河、甲斐、信濃に勢力を拡げていく過程で、在地武士団を三河譜代の傘下に再編していったのである。のちに大名に取り立てられた家系の多くが三河譜代であり、遠江駿河、甲斐出身者が極端に少ないことがそれを物語っている。p.115

という指摘が興味深い。和田裕弘織田信長の家臣団』において、信長が取り立てた外様衆である、明智光秀、木村村重、松永久秀にことごとく叛逆されたとあるが、そう考えると、家康の人事は非常に手堅いと言うことなのかな。
 関東入国時点で、大名に取り立てられた家臣は、一門、譜代ないし三河国衆がメイン。ほかは、信濃の国衆だけ。信濃国衆は、もともとが大身だったのが、そのまま関東に移ってきた感じか。


 後半は、一門や譜代家臣の出自を追っかける。こっちも、やはりあやふや。
 十四松平と言われる「一門」とされる家でも、一部は、松平と名乗らせた擬制的親族関係。あるいは、系図がよく分からないなどなど。こういう一門衆は、基本、独立の国衆だから、家臣としては扱いにくそう。丸島和洋戦国大名武田氏の家臣団』では、一門は独立の国衆として、軍事にはあまり関与しなかったとされる。それに比べると、家康は、かなり一門を軍事的に重用している感じがするな。
 あとは、安城・岡崎の両譜代。系譜が混乱していたり、たくさん分家があったり。石川・酒井・本多・大久保・阿部・鳥居・内藤・榊原。大久保家が清康の時代から松平家に仕えた新興家系とか、本多家がたくさん分家があるなとか。
 家康家臣のなかでも、井伊直政が異彩を放っているよなあ。遠江国衆が、譜代家臣の筆頭に抜擢。直政自身は、今川氏真に命を狙われ、新野新矩や松下清影などの庇護をうけて、外部を転々としたということか。で、家康の小姓に取り立てられる。国衆というよりは、個人的な信頼関係に基づく抜擢人事と。配下に武田旧臣が多いことも含めて、井伊谷の国衆としての継続性はどのくらいあるのだろうな。つーか、井伊家の三代ほど、讒言くらいまくりなのがすごい。