金子拓『信長家臣明智光秀』

信長家臣明智光秀 (923) (平凡社新書)

信長家臣明智光秀 (923) (平凡社新書)

 タイトル通り、よく分からない前半生を避けて、信長家臣として活動した期間を詳細に追った本。購入して即読了。いや、久しぶりに、サクサクと読めた。読書ノート待ちで放置されないうちに、記録を。
 将軍足利義昭と信長に「両属」していた1568年から1573年の時期、信長包囲網との戦いの1573年から1575年、丹波攻略に従事した1575年から1579年、その後、本能寺の変に至る1580年から1582年の4期に分けて、光秀の活動を整理する。さらに、途中で2章設けて、吉田兼見との付き合い、書状から見える光秀の性格を紹介する。


 基本的に、将軍に仕えて、朝廷、公家、寺社からの連絡に関する取次が、最初の役割だったのかな。その関係で、信長ともやり取りして、だんだんと重用されていくようになる。そうなると、謎の前半生がますます謎だよなあ。こうやって、京都の権門と付き合う人脈や物腰をどう身につけたか。室町幕府の関係者だったのかな。吉田家との付き合いを見ても、それなりの教養のありそうな人物だけど。出自や経歴に関する確実な情報は、美濃に親類がいるとか、越前朝倉家に一時期いたかもとか、細川藤孝と親密な関係くらいだしなあ。
 将軍と信長の仲介役みたいな立場から、軍事的活躍を通して、徐々に信長に接近。義昭の京都没落後は、信長の配下に移る。両者の間の支点みたいな立場だったという指摘が当否は別にして興味深い。
 その後は、対本願寺を中心とした関西方面の軍事行動と京都奈良の権門との連絡などを担う。関西方面に基盤を持つ光秀や細川藤孝が、長篠合戦を代表とする対武田戦争や尾張近辺の紛争に動員されていないというのが興味深いな。家臣団の使い分けというか。


 事績として重視されているのが、丹波攻略。京都の喉首を押さえる丹波の確保は、将軍義昭対策として、天下静謐のために、重要だった。その攻略についても、信長の戦略が二転三転している感はあるな。
 最初は、丹波・丹後は、光秀・藤孝といった幕府旧臣や細川昭元・一色義道といった旧守護家を通じて、在地の国衆を信長政権に編成。在地の支配関係をあまりイジらずに置く方針だった。反抗的な国衆も、威圧を通じて、恭順させる。
 このやり方は、いったんは成果を見せていた。
 しかし、1576年に毛利氏が信長との敵対を決意し、さらに1578年に荒木村重が離反すると、懐柔政策は破綻する。これに対し、無理攻めの方針に転換し、亀山城を築城。現在の亀岡市を拠点に、丹波各地の反抗的な国衆の城を攻め落としていく。この間の、光秀の関西での転戦ぶりも印象に残る。中井均・齋藤慎一『歴史家の城歩き』で、「少人数でなおかつ戦死者を出さないこと」を重視していたのではないかと指摘しているが、こういう多方面での転戦を繰り返す状況で、一つの城に戦力をつぎ込めなかったのだろうな。結局、丹波での戦争に専念したのは、最後の1579年だけ。数年かけて、反抗する国衆を一つ一つ潰していく。
 この時期、光秀の部隊は、直轄の機動戦力と、主に丹波現地の兵からなる攻城張り付け部隊で構成されていた感じかねえ。


 そして、最後は本能寺の変に至る流れ。信長側は、攻撃を受けるまで、光秀を信用していたっぽいなあ。一方で、光秀側は、取次を務めていた長宗我部に対する方針転換、徳川家康の饗応役の解任、周囲の目があるところで殴打と、立て続けに面目を潰される。そこに、完全に無防備な信長が京都にやってくるという状況が。
 吉田兼見が勅使として坂本に来た際に、本能寺の変の理由について「雑談」したという記事を、雑談で終わってしまうような「理由」しか無かったと解釈するのは、おもしろいなあ。
 長宗我部問題といい、稲葉家との紛争といい、斎藤利三がキーパーソンなのが気になるところ。


 途中に挟まれる、第三章「明智光秀吉田兼見」、第四章「明智光秀の書状を読む」も興味深い。
 兼見卿記で著名な兼見の父、兼右は細川藤孝の叔父。で、彼を介して、光秀も懇意に。光秀、藤孝、兼右の付き合い、同格の知識人だからこそって感じがあるなあ。本当に、光秀何者。
 書状から見える独自性も興味深い。他の信長重臣と比べて、病気や戦傷の見舞いの書状が多い細やかさ。あとは、「明晰さ」も指摘されている。第三者が読んでも、理解しやすい書状を書く人物、と。