水本邦彦『海辺を行き交うお触れ書き:浦触の語る徳川情報網』

 「徳川情報網」というよりは、徳川連絡網って感じだが。
 海辺の集落を村継ぎで伝達された「浦触」という文書を、全国にわたって博捜し、どのようなものを明らかにしている。年貢米や銀銅、木材などの幕府関係の運送船の支援や遭難した船の捜索、外交使節の移動支援といった海事関係の指令が、年に一度程度の頻度で回覧されていた。


 最初に遭遇した愛媛県の中島。史料の調査に訪れたところで、浦触の存在に出会い、興味を惹かれ全国に調査の手を広げていく。海辺の村落の名主などが残した、受け取った触を書き写した触帳や各藩の文書の授受を記録した日記などの業務記録類から、地理的広がり、時代的変遷、地域的な違いを明らかにしていく。
 特に、幕府が行う普請用の材木、年貢が行き交った東海道側の海村では、瀬戸内海沿岸の村落と比べても、村継ぎの浦触の頻度が高い。あるいは、最初に遭遇した愛媛の大洲藩熊本県の天草といった地域では、藩や大庄屋主導で、庄屋に印鑑を持ってこさせて、回覧したように割り付けるといったことも行われていた。


 このような浦触は、18世紀前半に始まった。この時期には、方法が安定せず、触れが行方不明になったり、円滑に回覧されなかったり。あるいは、それぞれの藩や旗本役所をリレーして、内容はそれぞれの藩庁や役所から通達させる方式など、試行錯誤された。
 その後、18世紀の半ばには空白期間が出現し、18世紀後半1750年代から、年に一回程度の回覧が安定して起こるようになる。
 西日本では、藩や代官所の関与が強いのは、18世紀前半に、四国からは藩継ぎになっていた前例を引き継いだのだろうなあ。早い時期にはボロボロになって、怒られるような事例が発生したりしているし。


 内容は、基本的には幕府関係の輸送物件。材木、屋根用の瓦・銅、年貢米の輸送の予告と輸送船の支援を命じる内容が基本。他に、東海・西日本では、流刑の罪人の運送船の予告支援。あるいは、琉球や朝鮮からの外交使節の移動支援などが多い。
 幕末になると君沢形などヨーロッパ系の技術を取り入れた帆船の航行支援も増える。


 こんなのがありました以上の議論をどう組み立てるかということで、ラストの「仲間を探す」は、村継ぎで回覧される触れについて、触れている。街道筋の交通関係、度量衡関係の検査人の移動支援、広域土木工事、領地が混在する土地の統治などでは、こういう村継ぎといったものがあり、行政情報の伝達が「領民型」と「国民型」に分けられる。
 しかし、発信者が藩などの領主や地域の名主で、それぞれ地域を限定した情報の回覧があり、浦触も、身分で編成されていた。名主の発信する浦触が興味深い。水難の遺体や漂着船の持ち主を求める回状が回され、身元や持ち主が判明する事例があるというのが、興味深い。
 あとは、浦触と伝馬証文を合わせたような性格の文書が、伊能忠敬の測量旅行に際して出された運送・活動支援の文書。どこの藩も、村々も相当気を使っていた感じなのがおもしろい。
 ここいらに関しては、街道筋で行き倒れの人を移動させた村継ぎなんかもあるし、コミュニケーションのあり方とか、村の統治みたいな話と接続できそうな気もする。犬が村継ぎで伊勢参宮するなんて話もあったっけ。