酒井紀美『戦乱の中の情報伝達:使者がつなぐ中世京都と在地』

 1461年から1471年に、京都の東寺と岡山の新見荘の間でやりとりされた文書を、丁寧に紐解くことで、在地と領主の間でどのようなコミュニケーションが行われたのか、そのようなコミュニケーションの担い手などを追及している。備中国北部で代官の安富氏を追放し東寺の直務支配が要請された1461年から、東寺の支配の動き、派遣された直務代官祐清の殺害、そして1467年以降応仁の乱の混乱の中で連絡が難しくなっていく状況が、新見荘から送られた注進状やそれに対する回答の写しなど、東寺百合文書に残る文書から明らかにされる。文書の番号もきちっと載っているし、東寺百合文書WEBを併用すれば、古文書の勉強には便利そう。
 最初は、新見荘の在地荘官や百姓たちからの申し入れによる直務支配の復活と直務代官派遣をめぐるやりとり。消極的で、新たな代官を任命しようとする東寺側と在地側のやりとりや、派遣された上使たちが報告してくる在地社会の状況。支配関係の変化に乗じて復活を図ろうとする勢力の存在。安富氏の追放が確定するまで偽の花押を使っていた花押の重要性なども興味深い。
 続いては、直務代官として現地に入った祐清が年貢取立てに努力するが、殺害されてしまう展開。京都との連絡を担う「京上夫」が、現地からの夫役で徴発されていたこと。この賦課人数をめぐる現地と東寺の対立や名単位の負担をめぐる対立。最終的に年貢の未進問題などで対立した上分名の名主豊岡三郎を処刑、その報復として祐清も殺害される展開。この殺害に対し、新見荘の領家側の百姓たちが武装して集結、犯人の家を焼き払う「自検断」の模様も興味深い。しかし、地頭分側の政所を焼き払ったことが幕府関係者の介入を招き、政所の再建をさせられることに。「末代までの恥」として抵抗する名誉のあり方も興味深い。あと、室町時代が、本当に自力救済の世界なんだなと。荘内の人々が武装して、敵対者を襲撃するって、完全に戦争だしな。
 最後は応仁の乱の間の現地と東寺のやりとり。戦争の開始によって、京都周辺の交通が混乱するだけではなく、商人の避難によって割符の裏書が不可能になるなど、経済的にも混乱する状況。地方からも足軽が徴発される状況。応仁の乱の混乱のなか、備中北部は山名・細川の領国の勢力圏の狭間で、勢力の空白となる。この状況下で新見荘を確保しようと外部勢力が介入を試みる、それに対し新見荘の百姓たちが土一揆を組織し、外部の介入を拒絶する状況。地元側が、結束を固めるために奉書作成を要求するなどの動きも興味深い。最終的に1471年閏8月に、土一揆の結束が崩れ外部の支配を受けることになり、応仁の乱終結まで注進状がなくなるという。
 在地の支配や京都とのコミュニケーションが鮮やかに再現されて、非常におもしろかった。


 以下、メモ:

 もともと、「末代」ということばは、末法の世の到来という終末論的な意味で、「末世」と同じように使われていた。それが、未来へとのびる時間軸の中に位置づけられ、「後々末代、子々孫々」というような意味あいで在地社会の中で広く語られるようになるのは、おそらく、中世も後期になってから、十四世紀半ば以後のことである。そこには、自分たちが今生きている村や家が、時間の流れの中で、「末代」へとつながっていくのだという見方や考え方があり、それがまぎれもない確かなこととして在地の人びとの中に強く定着していく。坂田聡氏や榎原雅治氏は、十四世紀末から十五世紀の初め頃に、百姓等のあいだに、永続的に継承されるものとして意識されたイエが成立していたと述べているが、新見庄の百姓等もその例外ではなかった。彼らの「末代」への強い思いが、今、自分たちが直面している問題への生半可な妥協を許さなかった。p.74-5

 家や集落が、14世紀末あたりから安定するようになったということだろうな。そういう集落のあり方というのには興味がある。

 庄官などをつとめる有力な百姓の家に、領主支配の拠点である政所が置かれるのはよくあることだった。南北朝期の矢野庄でも田所本位田の家に庄政所があったことがわかっている。この差図では、地頭方政所屋は谷内の家よりもはるかに大きな空間を占めている。しかし、あくまでもそれは「客殿」であって、「主殿」は谷内の家である。堀で囲まれた大きな空間と、その横の百姓の家とを並べてみると、一見、主客が逆転しているように見える。しかし、「主殿」と「客殿」の関係は、なお維持されている。これは、「公」の象徴である政所が、百姓「私」宅にあることの意味や両者の関係性をよく物語っている。上からの領主支配と在地側の結集軸とが互いに密接にからまりあうことによって、庄園の支配は遂行されていったのである。p.114-5

 政所が庄官の家に付属していたこと。荘園支配が在地の協力なしにはおこないえなかった状況。

 私たちが中世の在地社会に向きあうとき、平和な村のイメージも、従順で我慢強い村人のイメージも、きっぱりと捨て去らなければならない。彼らの日常にも、非日常にも、直接的な暴力性が充満していた。これは、ここで取り上げた十年間が、応仁の乱前夜から乱のまっただ中にいたる緊迫した時期だったことも確かに大きく影響しているに違いない。けれども、「自力救済」を自らの手で実行しながら生きた中世在地の人びとにとって、それは常に変わらない現実だったのではないだろうか。p.221

 まあ、「村」って軍事的団体だしな。まあ、そういう生活が心地いいものではなかったからこそ、戦国大名の領域支配が成り立ったのだろうと思うけど。