吉村豊雄『幕末武家の時代相:熊本藩郡代中村恕斎日録抄 上下』

幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈上〉)

幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈上〉)

幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈下〉)

幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈下〉)

 19世紀半ば、幕末期に熊本藩藩校時習館で教育に従事し、その後、郡代として地方行政の現場を歴任した中村恕斎の日記のダイジェスト。熊日新聞に約三年にわたって連載された物を単行本化。前半は恕斎の時習館教官時代や郡代としての活動が主。後半は幕末維新期の激動の中で熊本藩の軍事力強化の最前線に立った姿がメイン。「実学党」の活動が限定的なものであったことや「学校党」の中心人物であった恕斎と横井家兄弟との微妙な関係。19世紀の熊本藩では大規模な水利灌漑事業や干拓事業が起こされ、海岸地域や中山間地域で大規模な水田の開発が行なわれた時代であったこと。熊本藩の近代軍制への改革が人員を在御家人、資金を地方からの寸志と、民間からの援助に全面的に頼る状態だったことなどが興味深い。明治維新に至るまで幕府と朝廷のバランスをとる姿勢であったが、王政復古あたりで幕府を見限っていた政情判断。ラストのほうの明治維新にともなう藩政改革で旧来からの制度や家臣が排除されていく状況も印象的。排除されていく側から見た明治維新
 先日のシンポジウム「日本近世の領国地域社会」に刺激されて手に取ったのだが、これだとまだ「地域社会」は見えてこない感じだな。「手永」と「惣庄屋」にマスクされてしまっているというか。もっと個人に注目する必要があるというか。まあ、郡代が結局のところ、地域行政の武家側の代表者で、仲介者であるってのが、ある意味限界なんだろうけど。
 しかし、幕末期には惣庄屋だけでなく、庄屋も任命制で、定期的に異動していたというのは驚きだな。そうなると、惣庄屋、手永役人、庄屋、在御家人など地域の有力者間のネットワークが大事になってくるのかね。


 以下、メモ:

 ところが、その日、恕斎は妻おもせ、娘のおかゑとともに熊本を留守にしていた。時習館の同僚茂見惣兵衛夫婦を誘って阿蘇の地獄・垂玉温泉に湯治に出かけている。文化・文政(一八〇四-一八二九)のころになると温泉ブームが到来する。各地の温泉に湯亭・湯小屋ができ、広く温泉客を集めている。p.24-4

 19世紀はじめ頃の温泉ブーム。この時期経済的に余裕ができて、余暇を湯治で過ごす人が増えたってことなんだろう。

 在宅とは度重なる給料(知行手取米)カットに苦しんだ家臣が、自分の知行所できりつめた生活を送ることである。幕末には多くの家臣が在宅していた。p.33

 熊本藩でも、城下町を離れて知行所で生活する家臣が多かったのだな。森下徹『武士という身分:城下町萩の大名家臣団』を読んだときは、萩藩の「在郷住宅」は特殊事例かと思っていたが、そうでもなかったのか。

 当時中村家には三人の若党、三人の小者がいた。若党深草次と小者惣助が人馬改めのため三か所の知行所を回っている。知行書は北石貫村(現玉名市石貫)、寺嶋村(現山鹿郡寺嶋)、川部村(現菊池郡旭志村川部)。各村の「帳本」(知行所の庄屋)によって動員できる人馬が書き上げられている。幕末になっても知行主と知行所の結びつきは意外に強い。帳本によって書き上げられた人馬、人数三十九人、馬数二十五疋。異国船渡来の報があれば、正彝は人馬を率いて海辺防備に出動しなければならなかった。p.36

 近世の武士って、城下町に集住して、切米もらって、在地とは没交渉なのかと思っていたが、そうでもないんだな。ちゃんと、知行所との関係は維持されていたと。で、戦時には、知行所から人を連れて、戦場に行かないといけないと。この場合、知行所から徴発されるのは非戦闘員の人夫だよな。中村家は100石程度の家だから、戦闘員は当主本人と、あと一人か二人くらいしか出す必要はなさそうだが。

 ところで、時習館訓導といえば、この時期に大変な事件が起こっている。天保六年九月十九日、熊本城下山崎にて時習館訓導河部仙吾宅が放火された事件である。事件は、表向き首謀者の伊藤石之助と大塚仙之助が河部仙吾に叱られたのを恨みに思い、意趣討ちにしようとした企てが発覚し、腹いせに河部宅を放火したとされている。しかし、事件には知行取の家臣の子弟十八人に近郷の百姓六、七十人が関係し、「一揆連判状」をこしらえ、鉄砲で訓練しており、真相は根深い。この事件によって河部仙吾は免職となり、また、時習館の改革機運も高まってくる。p.46-7

 結局、裏で何があったんだろうな。けっこう大掛かりな企てだが。

 もう一つの「受持」は、郷党連というものである。郷党連とは、城下侍町の区域ごとに設定された十七、八歳以下の青少年たちの家臣仲間組織である。その地名をとって、たとえば坪井連・水道町連などと命名され、訓導たちに世話させていた。訓導たちは、いわば郷党連という青少年クラスの担任といえる。p.50

 こういうところの民俗的な関係というのもおもしろそう。

 農村の百姓一般は村の庄屋支配のもとにあり、庄屋から藩庁の通達類を知らされるが、郡代直触は郡代から直接に通達を触れられる。だから直触という。郡代直触以上の身分を「在御家人」と称している。在(農村)にいる御家人という意味であり、苗字帯刀を許され、明治に入って士族に編入された「村の武士」である。最高席次の次席が独礼。藩主に独りで御礼を申し上げることができる、いわば御目見待遇の在御家人である。
 「次の間」には、こうした在御家人のほかに「無足共」がいる。無足とは給分(知行)をもらう有足に対する言葉であるが、むろん一般の百姓ではない。脇差を差し、礼服を着用して新人郡代と対面している者たちである。「無足共」の実態は郡代直触の次の席次、惣庄屋直触の者たちと推測される。惣庄屋直触とは、郡代直触とは違い、藩庁からの通達が手永の惣庄屋から触れられる。彼らも村の庄屋支配からはずれた、「村人数放れ」と称される存在である。
 つまり、いま恕斎が内牧会所で対面しているのは、「村の百姓」ではない、郡代・惣庄屋の支配下に属している者たちなのである。彼らの中でも「表座敷」にすわる者たちは別格である。藩当局は、在御家人という「村の武士」が増加するなかで、家中を「士席以上」(知行取)と「士席以下」とに厳格に区別するが、いまや農村社会にも細川家を構成する「士席以上」の者たちが生み出されている。もっとも「小姓頭次席」「中小姓席」の「席」とは、「格」「並」と同様に小姓頭・中小姓そのもののではなく、相当の席次という意味であり、身分制の厚き壁も存在する。しかしながら、大名家の家中社会の席次が農村社会にもち込まれるところに改めて注目したい。p.83-4

 実は、当時の農村社会では。この「傘御免」の上に合羽・菅笠、脇差、礼服、苗字・帯刀といった特権が重なり、その上位に多様な武士身分が重層していた。農村の武士を「在御家人」と称する。彼ら在御家人は明治になって士族に編入されている。その数、一万二、三千人。幕末の農村社会にはこれだけの「村の武士」が存在していたのである。p.128

 「村の武士」たち。この人たちは地域社会の有力者でもあり、資産家でもあるから、この階層の動向を調べる必要があるんだろうな。

 大まかに言えば、文化・文政期(一八〇四−一八三〇)以降、幕末・維新期にいたる一九世紀段階は、実はこうした土木工事ラッシュとなる「公共事業の時代」である。しかも政府(藩庁)予算ゼロで事業は行なわれる。地元の直接負担もないが、受益者負担が原則。巨額の経費は公的融資、手永の備蓄銭(手永官銭)などで賄われ、野尻水利工事の場合、造成予定の水田三百町歩、通潤橋なら水田四十二町の収益で返済される。公共事業はまた、大きな雇傭の場ともなる。p.92

 逆に言えば、この時代に開発が集中する要因があるんだよな。米の商品作物としての位置の変遷、流通過程をじっくり見る必要がありそう。藩の年貢米だけではなく、民間で流通する米がどこへ流れたのか。中山間地の条件が余りよくない場所に、金をかけて水田を造成しても、ペイする見込みがあったってことだしな。

 ところが、である。母のおもせ、祖母のおたかが勧めても、当のおかゑが納得しない。日録には、おかゑ「不納得」の記事が続いている。おもせたちは、相手のどこが気にいらないのかと「聞詰」めている。おかゑが重い口を開いた。相手の弟が母親から「偏愛」されたわがまま息子であり、先々が心配だと。おかゑは冷静に相手方を判断し、母、祖母の勧めに安易に同意していない。武家の娘の結婚には、一般に家長の意向が強く反映するとみられるが、結婚という自分の人生を、自らの意思で選択する武家の女性も当然存在した。恕斎家の家風も影響していたろう。恕斎も無理強いできず、相手方にはほかに縁談話があれば、そちらを進めて下さいと返答し、この縁談を事実上断る。
 その後、嘉一郎が相手方を調べてみると、多額の借金があったり、いらないといっていた「持参」に「開」を申し入れる段取りであったことが判明する。「開」とは、知行取の家臣に許された新開の土地(御赦免開)である。嫁ぐ際に自分の娘に持参させる田地を一般に化粧田という。相手方から化粧田として開地を要求され、恕斎も悟る。わが子の判断が正しかったと。p.102-3

 おもしろいな。娘の方が相手の内情を見通していたと。若い女性のネットワークでもあったのかね。

 郡内で最も武芸が盛んなのは坂梨手永である。在御家人も多いが、財津一党という特異な開拓地居住の武芸集団もいた。とくに砲術に長じ、郡内に多くの門人を擁している。恕斎は七月二十六日に、まず砲術稽古場にて財津一族とその門人たちの砲術試業を見分している。二百目玉を三発ずつ射たせ、三発的中の四人に扇子を与えている。阿蘇山麓に大筒の音がひびく。幕末という時代状況を感じさせる。p.111

 メモ。砲術家か。

 日本で初めてのコレラ流行は文政五年(一八二二)であるが、安政五年のコレラは全国的に猛威をふるっている。発生源は長崎に停泊していたアメリカの蒸気船ミシシッピ号の乗組員。長崎のコレラはすぐに熊本藩領の南方海辺に飛び火、さらに熊本城下に拡大した。激しい嘔吐・下痢。全身の急激な衰弱、そして死に至る。急激に死に至る病は「コロリ」と呼ばれて恐怖された。恕斎は「ごろり」と記述しているが、実感として響く。p.200

 熊本でのコレラ流行。逆にいえば、人の流れが見えるわな。肥前から、南のほうに人が動いていると。

 その際に庄屋の「官宅」という言葉に注目したい。江戸時代の庄屋というと「村の顔役」というイメージが強いが、この時期の庄屋は長い役人生活のなかで何度か別の村に転勤していく、いわば地方公務員化した存在である。「官宅」は公務員住宅。p.212

 イメージが違うぜ…

 南関での西洋筒製造命令。この年、文久三年には熊本城下の川向こう、本庄(現熊本市本荘)でも藩営の西洋筒製造が始まる。藩当局もようやく西洋流軍隊の導入に着手する。南関手永には、藩の要請に応じるだけの潜在技術力があった。日録の同年五月十四日条によると、恕斎は、南関鍛冶で会所小頭の和田源太郎から「ミネエルケヘール」銃一挺を買い求め、代銀六百五十匁を会所役人の武田権右衛門に支払っている。南関の手永会所が鉄砲製造を統括している。南関の鉄砲製造は手永の産業、会所直営の産業とみていい。製品開発部門の和田源太郎は、ついに「ミニエー銃」の試作に成功している。ミニエー銃は、ゲベール銃と同じ火薬と鉛玉を銃口から入れ、火打石(雷管)で点火する火打石式先込銃
ながら、銃身の内面にライフル(らせん状の線条)を刻んだ、いわゆる施条銃である。射程は伸び、命中精度は格段に上がった。火縄銃など比較にならない。下巻p.61

 この時期の熊本藩には、想像以上にゲベール銃、ミニエー銃など新型銃器が導入されているが、これを藩の家臣団組織のなかで実戦化するには限界があった。家重代の鎧兜で騎乗している歴々の家臣に西洋銃を持たせ、事実上歩兵化すいることは土台無理であった。その点で、薩摩藩のやり方は明解である。同藩は、鹿児島城下の家臣と地方の郷士を明確に区分し、郷士に最新のミニエー銃を持たせ、郷士銃隊を軍事力の主体とした。軍制の抜本的な方向転換が必要だった。熊本藩の在御家人も、よく郷士と呼ばれる。では、在御家人に薩摩のような軍制比重を移せるのか。それは、無理な話である。同じ郷士と呼ばれながら、郷士を存立させる政治社会構造はまるで違う。それでも熊本藩において、西洋銃の銃隊を編成しようとすると、藩軍隊の外、在御家人を主対象にせざるを得なかった。下巻p.165-6

 熊本藩の西洋式軍制導入が、地域社会に依存していた状況。これで軍備費は「鉄砲寸志」で集めているんだから、完全におんぶに抱っこで、番方は人件費がいるだけの無用の長物と化しているな。しかし、南関ではミニエーまで作っていたのか。けっこうすごいな。

 現地を歩いてみると、ほぼ往時の区域を想定することができる。区域は大きく二分され、白川側に「操練所稽古場」、もう半分に製作所が設置された。川筋には「鉄砂ゆり場」が設けられ、銑鉄生産から銃砲製作までの一貫工程が整備されたと見られる。すでに南関などで蓄積させた開発力・技術力がある。この年から西洋銃(ゲベール銃)の本格製作が開始されている。p.98

 本荘の銃砲製作所の状況。通ったことはあるけど、そこまで分からなかったな。