芳賀ひらく『古地図で読み解く江戸東京地形の謎』

古地図で読み解く 江戸東京地形の謎

古地図で読み解く 江戸東京地形の謎

 寛永江戸図、明暦江戸大絵図、幕末の分間江戸大絵図、明治初期の地形図、現在のデジタル標高地形図を組み合わせて、どのような地形がどのように利用されていたかを追った本。江戸が巨大化する以前は、周辺の谷にくまなく水田が展開していた状況。主要な道が尾根を通じていること。東側の低地では自然堤防などの微高地から先行して集落が展開していた姿。沿岸が埋め立てによって徐々に広がっていったことなどが紹介される。あと、江戸周辺が徐々に都市化していき、江戸の範囲がスプロール的に広がっていく姿も興味深い。難を言えば、どこを取り上げたか、広い範囲を収録する地図で示して欲しかったかな。
 あと、土地勘がないので、地図上で見た姿から、歩いた時に見える姿が思い浮かばないのが残念なところ。
 ラストは江戸図の紹介。版行図は書誌的な情報が整備されているが、行政史料として利用された手書絵図に関しては所在状況や作成状況もはっきりしていない状況にあると。本書で多用されている寛永江戸図も、他に史料が存在しない初期の江戸の状況を示す地図が、臼杵市図書館で比較的最近発見されたりすると。逆に言えば、全国の大名が江戸に利害を有する立場だったってことだよなあ。


 メモ:

 近世のはじめ、近代的測量が開始される以前でも、世界の主要都市は伝統の知と技を結集して、その自画像を作成してきました。近世都市の地図は、それぞれにおいて華麗な図描を今日に残したと言っていいのです。一例を挙げれば、明暦大火にも似て、一六六六年の大火の後に作成された、画期的なオギルビーとモーガンのロンドン図(一六七〇年・二一シート)や、ルイ十四世に献呈された、最初の「幾何平面図」であるJ・ゴンブーストのパリ図(一六五二年・九シート)が「寛文五枚図」の同時代的な都市図と言っていいでしょう。「五枚図」以降の江戸図ももちろん近世大都市の地図の一種ながら、しかし、その実像はきわめて異様なものがあったのです。
 すなわち、そこに書き込まれた情報の主体は「人間の名前」(基本は名乗り名)であったということです。これは都市図としてはおそらく世界にも類例がないことでした。清時代の北京にしろ、李朝時代の漢城(ソウル)にしろ、宮殿や都市施設の名称記載はあっても、邸地の主の名を主体とした地図は例を見ないのです。それも今日の住宅地図のような、網羅的な個人名ではなく、将軍家の家臣のうち一定以上の者の名に限られたのでした。もちろん大名の名も示されていますが、それは将軍家の家臣としての扱いであって、だからその大名の家臣、つまり陪臣名は省かれたのです。
 都市史的側面からすると、江戸図は、封建領主がある時点から家臣を城下に集住させるようになって以降の「城下町絵図」の一種であって、その内容は「陣営図」にも似た「屋敷割図」ないし「家臣配置図」にほかなりません。そうして江戸図は、その特殊性すなわち「総城下町絵図」として幕末まで続きました。
         (中略)
 そうして、江戸図には「描かれなかった」、あるいは例外的にごく小さな扱いで描かれた「都市の諸要素」が膨大に存在していて、江戸時代の人々は、江戸図の「背後」ないし「隙間」にそれを読みとらざるをえなかったのです。描かれなかった都市の主要素とは、たとえば役所(南北町奉行所がそれに相当する)であり、市場(魚市場のみならず青物市場そのほか)であり、大店(白木屋越後屋)であり芝居小屋や料亭であり、今日の言葉で言えば「市井の生活」にかかわることがらですが、その反対に小さな「稲荷」まで掲載されたのは、江戸図を見ればすぐわかるように、行楽遊興の地を兼ねた寺社すなわち公許宗教施設は武家屋敷同様、いやそれ以上に大きな扱いとされ、大絵図や切絵図では建物や立木まで絵画的に記載してこれを強調しているのでした。
 江戸図は、そして日本の近世城下町絵図は、都市図としては、特殊主題図(Thematic Maps)に終始し、一般図(General Maps)に近づくことはついにありえなかったのです。p.207-9

 うーん、近世の権力を「封建領主」と表現する時点でアレな感じだが…
 主題図として終始した近世の城下町絵図。政治的・行政的な資料として使われた手書きの地図も屋敷地を重視しているのは、近世の武家政権にとって家臣団の統制が重要課題であったことを示しているのは確か。しかし、版行絵図まで、屋敷図に終始したのは、支配階級の末端に連なる武士の間で、膨大な個人的やり取りがあったことを示しているのではないだろうか。武鑑も含めて、地図利用の「大衆化」のような動きがあったからこそ、住宅地図のようなスタイルの地図が近世を通じて生き続けたのだと思うが。
 役所に関しては町年寄りを通じた間接支配が行われたように、さまざまな「都市の諸要素」が利用する人々にとって、等閑視できる要素だったんじゃなかろうか。