熊本博物館特別展「追憶の熊本:画家・甲斐青萍が描いた熊本城下の記憶」

 ズルズルとまとめが遅れて、一週間後になってしまった。昨日、一昨日であらかた書き終わっていなければ、さらに遅れるところだった。。


 熊本市立博物館で開催されている展覧会。甲斐青萍の熊本城下町絵図や回想画を中心に、熊本城下町の歴史を通観する展示。青萍の家が、現在の安政町通り近辺にあったため、回想も、それらの地域がメインに描かれる。上通、下通、新市街あたりの一帯は、西南戦争、太平洋戦争の二度の戦火で破壊され、さらに、繁華街として開発されて、旧状をまったくとどめないだけに、過去のよすがとして貴重。
 あのあたり、今は雑居ビルばっかりだけど、当時は個人住宅が多数あったのだな。
 あと、現物を見ると、前に買い込んだ『甲斐青萍熊本町並画集』の内容がストンと頭に入ってくる。
 一方で、地図類は、ケースのガラスから距離が遠い上に、水平に置いてあって、細かいところが見にくかった。せめて、斜めに展示してあれば…


 甲斐青萍の絵を見ると、現在の下通と電車通りの間にあった追廻田畑の存在感が大きい。しかし、これが、どんな姿だったのか、意外と追うのが難しい。今昔マップを見ると、1900年ごろ、明治末の時点で、ずいぶん市街化が進んでいるように見える。
 一方で、青萍の絵を見るに、戦間期のかなり後の時期まで残っていたようだけど。ただ、太平洋戦争時、熊本空襲の焼け跡を描いた絵には、追廻田畑が存在しないように見えるし。
 改めて、追廻田畑があったあたりを歩くと、栄通のドンキホーテがあるあたりが、顕著に低くなっている。あのあたりが追廻田畑の跡のようだ。どの程度、どこの資材を使って埋め立てのだろうか。


第一章 熊本城下の成り立ちとその発展
 ここは、戦国時代末期から江戸時代の熊本について。
 熊本城建設以前の茶臼山の姿を、唯一伝える「茶臼山ト隈本之絵図」。白川の蛇行が描かれていないなど、信憑性には疑問符がつくが、他にない史料。茶臼山の頂上に観音堂があったとか、現在の熊本城下町の地域に複数の集落があったらしいとか。とはいえ、世継神社が桜馬場あたりにあったようにも見えるし…
 あとは、幕末から明治初年に描かれた熊本城の鳥瞰図の類い。だいたい、南西側から見たものと、北側から見たもの。西側上空に視点を置いたものがないのが興味深い。青萍の町並み図屏風を見ると、現在の熊本市役所から下通あたりには、作事所と大きな池がある大きな武家屋敷が興味を引く。あとは、蓮政寺がやたら広いとか。あの敷地を考えると、蓮政寺公園や八雲旧居の下には、墓地跡が埋まってそうだなあ。
 「藤崎宮御祭絵巻物」と「肥後村々雨乞行列彩色図」が興味深い。前者からは、飾り馬を跳ねさせることが近世には行われていたことが分かる。また、後者は、明治初年まで雨乞いで作り物と太鼓で行列を作っていたこと。これ、当局が「醜態」と禁止しなければ、都市祭礼として再解釈される可能性があったのではなかろうか。禁止した奴誰だよ。


第二章 熊本城下の近代化
 熊本城に鎮台が置かれ、花畑屋敷跡が練兵場化。市街が分断される。さらに、西南戦争では、天守閣などの主要施設が焼かれ、さらに、射界の確保のために市街も後半に放火される。焼けた範囲を示した地図からすると、古町の西端、浄行寺から北の坪井・黒髪、京町の北の方、白川の左岸の市街が焼け残った。
 青萍の「熊本明治町並図屏風」がおもしろい。熊本市役所のある場所には監獄があって、その東側には、武家屋敷の庭が残って、「精洋軒」や「研屋支店」といった宿や料亭があったらしい。現在、「九州の電気事業発祥の地」の看板があるところには火力発電所が、上通の西側には「熊本文教回顧之碑」にあるとおり、複数の学校が立地している。あとは、やたらと広大な練兵場と、かなり高低差がありそうな追廻田畑。そして、安政町通りに教会があったのだな。
 1915年と1927年の熊本市街図も興味深い。前者には軽便鉄道が、後者には現在の路面電車の線路が記載されている。つまり、この間に都市鉄道網が切り替えられたんだよな。
 大正になると、花畑町の練兵場が返還され、市街に。地番の割り付けなどの資料が展示される。
 で、同じく青萍の「熊本昭和町並図屏風」。全体にコンクリのビルが目立つようになっていく。先日取り壊された貯金支局がすでに存在する。あるいは、下通の裏に放送局が。これは、「JOGK放送発祥の地」の碑がココサの裏に残っている。あと、新市街の銀丁百貨店が大きく表現されている。映画館や劇場が複数たっているが、今に残るのは電気館だけか。
 ほかには、これまた青萍の作品、「明治大正の風俗」や「明治時代市民風俗」がおもしろい。赤ゲットを着て歩く人。騎乗する軍人らしき人が居るけど、どういうとき馬に乗って動いたのだろうか。プライベートで乗り回したとは思えないのだが。あとは、乗合馬車なんかも興味深い。熊本で馬車の交通機関としての痕跡は少ないが、実際にはけっこう運行されていたのかな。あとは、屋台出店の類い。火事の時には江戸時代の町火消しとたいして変わらないような消防団が出動していたのだな。


第三章 追憶の熊本:熊本城下の「未来」へ
 ここは、甲斐青萍の個人史と作品を中心に、太平洋戦争による熊本市外の破壊、1953年の626水害など。
 甲斐青萍の作品として、歴史画が4点、「追憶の熊本」シリーズ17点、「人生スケッチ」15点などが展示される。「追憶の熊本」や「人生スケッチ」は、失われたものへの哀惜が、表現に力を与えているように思える。一方で、表芸の歴史画はあんまりピンとこない。そもそも、歴史画というジャンルそのものが、一般的に絵が硬くて、どうも好みではないのだが。
 追廻田畑と歩兵二十三連隊の敷地が石垣になっていた。あるいは、木造の校舎が並ぶ「文教地区」手取。町家が並ぶ安政町通りの姿。安巳橋のたもとには鰻屋があったとか。もともと、安巳橋に通じる安政町通りがメインストリートだったっぽい姿。酒屋や饅頭屋などとともに、住宅が並ぶ町並み。火の見櫓があったり。これらが、一夜にして灰燼に帰してしまう。
 明治33年に、白川の主要な橋が流された水害とか、渡鹿練兵場で奈良原三次が製作した飛行機「鳳号」の展示飛行の思い出が興味深い。
 鳳号については、以下の記事参照。
www.rose.sannet.ne.jp
ameblo.jp


 昭和2年宇土櫓改修工事のアルバムや記念品の陶器と金属の宇土櫓模型もおもしろい。つーか、欲しい。あとは、昭和初期の商店の姿をとどめるマッチラベルコレクションのスクラップブック。