富田紘一『熊本城:歴史と魅力』

熊本城 歴史と魅力

熊本城 歴史と魅力

 タイトルの如く、熊本城の歴史と江戸時代にはどんなやぐらがあったのかなどを解説している本。著者は熊本城研究の第一人者。
 熊本城下町を建設する時に、白川の蛇行を直線化したという話を読みたかったので借りたのだが、他の部分もおもしろかった。特に、石垣の時期関係。現在の第一高校の敷地にあった古城に拠点を置いた清正は、豊臣家臣団内部の対立による戦争の危険にともなって、城の強化に着手。茶臼山の山頂部分を詰の城として、石垣作りの城を建設。現在の本丸周囲の石垣で、石垣の下が緩やかで、角部分が算木積にならないのが特徴。著者は第一期とする。続いて、古城に近い現本丸南側に城域を拡張。現在の飯田丸に当たる。石垣の傾斜が一期と比べて急になる。第三期は東竹の丸南面の石垣。部分的に算木積が見られる。第四期は現在の熊本城全域の整備。非常に広い範囲がこれにあたる。コーナー部分が完全に算木積になる。石材はばらつきがあり、非常に長い石材も使われているという。第五期は、竹の丸周辺。白川の直線化にともなって、河川敷に盛土を行い、城域に取り込んだもの。出隅の算木積の用材が規格化されたのが特徴。第六期は、その後細川時代に行われた補修にともなって建設された石垣。飯田丸には、重複した石垣もあるそうで、本書の内容を頭に入れて、石垣を見て歩くと、より楽しめそう。
 あとは、もともとの白川の流路が、下通りからその西にかけて北流し、厩橋近辺で現在の坪井川の流路になり、その後、古町と辛島町の境目である船場町から山崎町を通っていたというのも興味深い。下通りから駕町通りが上り坂になっていたり、江戸時代の地図を見るとそのあたりが田んぼになっていたりと、痕跡はいろいろと存在する。江戸時代の旧流路の田んぼと東西の屋敷地でどの程度比高があったのか、埋め立てられたのはいつなのかというのも気になるが。
 往時、どのようなやぐらがあったのか、あるいは近代に入ってからの変遷。さまざまな櫓の撤去、西南戦争の被害、戦後に入っての史跡として整備されていく過程なども興味深い。復元天守は、岩盤まで基礎が入っていて、天守台に重量がかからないようにされているのだとか。
 これで、見開きで熊本城の地図が入っていればよりよかったな。

 昭和三七年にNHKの放送会館を建設中に古墳時代の横穴墓が発見され、当時熊本女子大学の乙益重隆氏によって発掘調査されている。その折、工事で新たな穴が発見された。それは、NHKへの坂道を登りつめたところから西北約五〇メートルの位置であった。
 穴は平坦な地表に対して二〇度ほどの傾斜で開口していた。その形状は、素掘りで高さ約一・七メートル・幅約〇・七メートル、天井はアーチ形になり、床には階段を掘り出していた。穴は開口している地点から東北方向の藤園中学側に延々とつづき、その出口は旧坪井川の岸にあるらしいが、約二〇メートルで崩壊していて確認できなかった。乙益氏はこれを千葉城の抜け穴ではないかと報告されている。p.15-6

 千葉城には抜け穴があったのか。高さ1.7メートルってけっこう本格的なトンネルだな。むしろ、奇襲用の出撃路なんじゃ。

 明治二二年(一八八九)七月二八日深夜、熊本地方は記録的な地震に襲われた。これは金峰山地震とよばれ、熊本城もその北側を通り立田山断層線の動きにより大きな被害を出した。被災した場所は頬当門より数寄屋丸丸の石垣、闇門をへて本丸御殿下の闇通路の左右の石垣、大小天守台の上部、竹の丸の中程、下馬橋際の石垣、百間石垣の上部などが崩壊している。特に本丸では、西南戦争直前に焼失した天守や本丸御殿跡に集中しており、高熱を受けて石材が劣化していたものと考えられる。この時崩壊した石垣は後に修理されるが、追補した石質がやや異なり、また石を斜めにした谷積になるなど、よく観察するとそれとわかる。p.140-1

 熊本城内を断層が通ってるんだから怖い話。被害跡はよく観察すると分かるそうだが。

 昭和初期には加藤清正の築城以来、熊本城や城下町と大きなかかわりを持っていた井芹川と坪井川で河川改修が行われている。
 井芹川では五年から一〇年にかけて大きな流路変更が行われた。上手では、井芹から杉塘をへて熊本城の北西裾に大きく蛇行していたものを直線化して、現在のように鉄道線路と並行になる流路としている。下流では島崎から横手をへて細工町の裏で坪井川と合流していたものを、昭和八年三月に島崎から千原台と花岡山の間を切り通し谷尾崎方向に新たな流路を開鑿した。ここに清正半国領主時代には城と城下町に物資を運ぶ基幹舟運にも活躍した井芹川は城下から大きく離れる。旧流路は、現在は筒口から昔は鐘ヶ淵とよばれた禅定寺の裏をとおり、北岡自然公園(旧妙解寺跡)の前まで小さな流れとして残っている。流路は狭くなっているが妙解寺参道の石橋だけは当時のままで、昔の川幅を教えてくれる。
 一方、城域の東側を流れる坪井川においても昭和八年から五年がかりで改修が行われた。それまでの坪井川は、寺原から千葉城にかけて内坪井の西側、京町台地の裾を幾重にも蛇行して流れていた。流路の改修はこの蛇行を直線化し、大きく東に張り出していた千葉城の突端をカットして通したものである。旧流路は下水路となり、上流側ではコンクリートの蓋で覆い曲がりくねった細い道路となっている。下流側では磐根橋下あたりから城東小学校・藤園中学校の西側にかけて狭い雨水路として残っている。
 往時は河道とは別に、現在の壺川小学校東の空壷橋あたりから千葉城北側の上林橋(現六工橋)にかけて折れ曲がりながら水堀が存在した。旧河道の部分は発掘調査の結果、自然の流路ではなく台地から城郭の裾にかけて防衛のために人工的に開鑿されたことが判明している。そこで、具体的にどこを流れていたかは確証がないが、ほぼ水堀あたりが熊本城以前の坪井川と考えられる、そこでこの河川改修は清正以前に戻されたものともいえる。p.143-4

 坪井川と井芹川の改修。意外と早い時期だったんだな。この河川改修の決定過程とか、坪井川旧流路の発掘調査報告が気になるな。井芹川の蛇行ぶりをみると、坪井川の過去は派手に蛇行していたんじゃないかと思うが。