平井上総『兵農分離はあったのか』

兵農分離はあったのか (中世から近世へ)

兵農分離はあったのか (中世から近世へ)

 途中でシヴィライゼーションに興じていたこともあって、細かい内容が頭から抜けている。おおまかに。


 近世と中世を分けるとされる「兵農分離」が、実体としてどのようなものであったのかを丁寧に追った本。研究史を、史料から検討しているのが興味深いが、逆に初心者には敷居が高くなるかも。
 とりあえず、意図的に武士と百姓を分ける法令は、秀吉による帯刀を禁止する法令程度。武士の城下町への集住や戦闘員とその他の人間の分離というのは、意図的には行われていない、と。
 江戸時代の同時代人が、近世社会を「兵農分離」の社会と認識していた。このような近世的社会への変化には、豊臣政権が画期となった。しかし、豊臣政権は、武士を農村から引き剥がそうと意図していたわけではない。頻繁に行われた国替え。さらに、朝鮮遠征などの軍事動員体制の整備が、検地という農村への介入、行政的業務の増大による城下町居住の常態化など、結果として、農村に武士があまりいない状態を作り出した。


 少なくとも、「身分法令」と理解されている法令は、朝鮮遠征のための武家奉公人確保策であった。目の前の課題への対応で、日本社会全体の意図はなかった。
 また、軍事動員能力を維持するために、大名は、納税者である百姓の保護、戦闘要員である家臣団の戦力維持という相反する課題を両立することが求められた。
 田中圭一『百姓の江戸時代』に、江戸時代の法令は、明確な政策意図があるわけではなく、場当たり的な意思表明に過ぎないといった指摘があるが、豊臣政権でもそれは変わらないということか。


 熊本だと、割と兵農分離が明確で、農村部に武士の姿はほとんどない感じだけど、土地によって、そのあたりの状態にずいぶん差があるのだな。肥後藩でも、地鉄砲とか、農村居住の戦闘要員はそれなりに存在するわけだが。
 行政職や番方の勤務が忙しくて城下町に住んだほうが都合が良い、あるいは、遠征や参勤交代で領地の経営に携わることが難しくなった。これが、武士が農村での存在感を低下させた要因であると。
 しかし、冒頭近くで紹介される熊沢蕃山の武士を農村に住まわせる議論が、ポル・ポトみたいで気持ち悪い。農村でのプロト工業化といった高度な商業化が、全く見えていない感。たぶん、農村に武士を居住させたら、商売に忙しくて、武士としての職務がおろそかになると思う。


 以下、メモ:

 文禄二年(一五九三)頃、九州のキリシタンの反乱を恐れた秀吉が武器を没収したという記事だが、注目すべきは傍線部である。日本では、どの身分でも、成人の証として刀・脇差を身につけていたが、秀吉に没収されたことで、それができなくなり、悲しんだというのである。刀・脇差は武器という以外にも、一人前の人間であることを見た目で証明する機能があったが、秀吉は帯刀者=武士・奉公人身分という考え方に基づき、それを否定したと言える。p.160-1

 刀狩り以前には、成人はみな帯刀していたと。成人の証としての帯刀。

本書では詳しく検討できなかったが、戦国期と近世では家臣の数が減少している(代わりに家臣一人当たりの領地高の平均値は上がっている)と思われるため、なおさら職務のための城下居住率が高くなったであろう。また、妻子を城下の屋敷に住まわせなければならなかったり、城下の屋敷が情報収集や家の経営の拠点となっていたりといった要素も、環境要因の変化と捉えることができる。逆に、環境の変化が比較的少なかった郷士たちは、戦国時代の軍役衆と類似した存在のままであった。
 さらに言えば、右の環境が変化したきっかけも、社会全体の環境が変化したからとも言える。大名同士が隣国との戦争に警戒しなければならなかった時代に比べれば、豊臣期以後はそのリスクが減少している。一方で、統一政権からの命令で、遠隔地(特に海外)への遠征や、京都・江戸への参勤の機会が増えたから、組織もそれに適した形に変えなければならない。武士たちが自分の領地に住んで経営に専念することが難しくなったのは、こうした全体的な環境の変化が根本にあったのである。p.295-6

 へー。
 境目争論が統一政権の裁判によって解決されるようになり、大名の組織も変化した。人員を減らしてスリムに。一方で、遠隔地への進出を前提に。そうなると、地元で耕作している家臣は、使いにくくなるな。
 で、そういう地元での生業に専念したいタイプの人々は、家臣団を離脱、「帰農」して、村役人などの農村上層を構成するようになった。