一時、さまざまな革新的政策を実行して、中世から近世への変化の中心と位置づけられてきたが、今は、それほど、革新的という扱いではなくなっている。いろいろと、秀吉の時代に、戦国時代のあり方から大きく変わったのだろうけど、意識的に行われた政策は、それほど多くない。大陸征服のための際限の無い軍役や敵対勢力への対応など、場当たり的な対応が、結果として社会を変えていったという点では、信長と同じ扱いといった感じか。近世が意図的に創出されていったとするなら、2世代あと、徳川家光や細川忠利の時代ってことなのかねえ。
全体としては、四部で、16章構成。第一部「政治権力者としての実像とは」は、他の大名や公武関係など政治的関係を扱う。第二部「誰もが知っている秀吉が命じた政策」は、検地・刀狩り・惣無事令・朝鮮出兵などの各種法令の検証。第三部「秀吉の宗教・文化政策」は、東山大仏・キリスト教禁教・茶の湯など。そして、ラストの「秀吉の人生で気になる三つのポイント」は、出自や本能寺の変後の動き、家康との関係といっあトピックを扱う。
第一部は、大名関係や朝廷などの政治向きの論考を収録。
堀越祐一「五大老・五奉行は、実際に機能していたのか」は、秀吉没後の政治動向を整理したもの。勢力拡大を狙う家康、彼の上杉征伐は、豊臣家・他大老を制圧する大きな賭だった。だからこそ、危機感を抱いた三成や他の大老は、家康と敵対する道を選んだ。それなりの危ない橋を渡っての天下取りだった、と。あとは、秀吉の威光で、三成の権力が、当時かなり高いものだった。しかし、やはり秀吉あっての三成の権力で、だんだんとその力は陰っていっていた。
光成順治「秀吉は、『大名統制』をどの程度できていたのか」は、秀吉政権の大名統制のあり方。公的な統制システムは存在せず、秀吉との情報流通を押さえる「取次」である石田三成や増田長盛といった人物を通じた、私的な回路で、行われた。このため、家中への介入は、島津家の様に強いものから、そうでもないものまで、いろいろあり得た。また、取次側も、政治的な重要性によって、尽力の度合いを変えていた。秀吉自身は統制の指向を強く持っていたが、それを実現する回路が存在しなかった。
他にも、朝廷との関係が、強圧的にできたものではない。関白引退後には、挨拶に来なくなったとか。公家の「役」の固定と領地の給付。武家にも「清華成」など、官位授与による家格秩序を創出しようとしたこと。あるいは、初期に重要な取次・右筆であった細井政成の存在など。
第二部は、制度面。
太閤検地が、実施面では在地の慣行を重視して、全国で統一されたものではなかった。担当者の裁量がけっこうあったこと。一方で、石高に換算できる標準的な収入表示が、全国的に導入され、軍役の基準となった。
刀狩りも、各地で、その侵徹度にばらつきがあった。百姓の側も、素直に武具を差し出したわけではなく、江戸時代にいたっても、村々には鉄砲が害獣駆除用という名目で大量に保有されていた。一方で、大量の武具が残っていたにもかかわらず自力救済が押さえられた意義や成人の証としての帯刀から身分標識としての帯刀への変化など。
「惣無事令」「豊臣平和令」という意味づけがなされていた惣無事の文言からの検討も興味深い。もともと、多くの関係者の話し合いによる政治秩序を指し、信長時代の関東から近世的意味の惣無事が創出されていく。「平和」を掲げての軍事介入・征服という二面性。関連して、秀吉の戦争が、未だに研究不十分という指摘も。
秀吉・家康の「外交」。明を打倒し、新秩序を作るという目標から、最後は朝鮮や明から秀吉の体裁を保つ譲歩を引き出すことへ、目標が変化していく。一方で、その後の家康も、慎重な対応ではあったが、朝鮮が和平に応じなければ戦争も選択肢にあったというように、相応に武力主義的であったという指摘が興味深い。
第三部は、宗教や文化関係。
秀吉の宗教政策が、先例を踏まえつつ、東山大仏や、禅宗・浄土宗・日蓮宗・時宗・浄土真宗といったこれまでルーズな教団組織であった鎌倉以来の新仏教を、「宗」として体制化するといった新機軸も導入されていたこと。
あるいは、博多で強硬な態度を取るイエズス会・ポルトガルに対して、秀吉が一日で方向転換を行った状況。そして、キリスト教の禁教が、秀吉の時代には、貫徹できなかった状況など。
あとは、秀吉の茶の湯。利休と秀吉の茶の湯の趣味、だいぶ違うんだよね。そこらの齟齬は、利休切腹に関わり有りそう。また、茶の湯を通じて、さまざまな人々を、自らの権力関係に組み込んでいく手段としての側面。
ラストの第四部は、出自などの人生に関して。
出自は、結局、確かな史料は存在しないということだよなあ。なんか、それほど身分低かったわけではないっぽい感じになってきてはいるが。父方の存在感のなさが印象的。
本能寺の変がおこったあと、豊臣政権が出現するまでも、秀吉が一貫して、天下人を目指していたわけではない。柴田勝家との対決、織田信孝・信雄との関係悪化など、そのときどきの政治状況に対処していった結果、秀吉自身が天下人になってしまった意図せざる展開であったと指摘する。あるいは、外様有力大名を政権内に位置づける必要性が、豊臣政権の形を規定した。
ラストは、家康との関係。官位の授与状況からは羽柴一門扱いであり、また、検地からは豊臣大名として一括した政策のなかにあった。朝鮮出兵時も、名護屋浦の警護を任されるなど、秀吉は家康を信用していたし、家康も忠実な有力者であり続けた。虎視眈々と次を狙うような関係ではなかったという。