長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』

楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)

楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)

 うーん、よく分からん。読み直したいところだが、図書館の返却期限が迫っているので、宿題に。
 研究史を元に、「楽市楽座」を問い直す本。「楽市楽座」に関わる文書をすべて検討し、さらに、近世以降にそれが、発給された土地にどのような影響を残しているかを追求しているところがおもしろい。


 「楽市」という言葉の意味することは、外部から特別な貢納を求められない、自由売買、検断と称して外部から財産没収される、押し買い押し売りを受けない、債務不履行による身柄拘束や国質郷質が行われないなど、課役免除、自由売買、平和領域の場であると定義できるのかな。その割に、大名が発行する文書には、課役免除とかの条件がかけている事例があるのが分かりににくいのだが。
 本来は、桑名が「十楽の津」と名乗り、六角氏の書状の「楽市であるため致し方ない」という言い方から、商人たちの慣習や自治で「楽」は実現されていた。それが、後の時代には、大名が特権として保証する存在と変化していく。


 北条氏や徳川氏、織田氏織田家中の発給した「楽市」と表記した文書を検証すると、領国全域の経済政策として「楽市楽座」が行われた形跡はなく、戦争で荒れた土地の再開発や争奪の最前線において物資供給の円滑化、あるいは地域の民心を引きつける、より戦術的な政策とみることができる。
 境目の人々を引きつける目的で出された家康の小山新市への文書。ちょっと他の市よりランクが高いと納得させるために出された北条氏の世田谷、前田利長の北野宛の文書。一向一揆との対戦の中で、その拠点の一つだった金森の復興と再編成を見せつけるために出された織田信長の文書。三木城攻めから播磨平定作戦の途上、兵站拠点とする目的で淡河に出された秀吉の「楽市」文書。「楽市楽座」はむしろ、目先の軍事的・地域的な政策であった。
 大きく取り上げられる安土城下の楽市楽座も、むしろ、周囲に多数の流通拠点となる町場がある状況で、自己の城下町に人を引きつける目的がメインであった。住民の保護を強調するなど、新興の町場をもり立てるために必死の文書である、と。六角氏の後ろ盾で行われていた馬の売買だけが、六角氏の権限を引き継いだ信長には、強くでられる唯一の分野であった、と。


 「楽座」の問題も興味深い。「楽座」とは、「座」の否定ではなく、座が負担する税金を軽減する、優遇政策。文字通り、「座」を「楽」にするものであった。「楽座」は、座からの役銭が減少し、大名の財政に直撃するので、実際に行う大名は稀だった。これが、「楽座」の事例が「楽市」より少ない原因であった。
 座の廃止は「破座」であり、これは豊臣秀吉が、関白となった時期以降に、自らの政権の存在を印象づけるために導入された政策。これによって、中世以来の「座」はいったん否定されることになった。


 終章は、これら「楽市」の文書を受けた集落がどのように変化し、また、「楽市楽座」をどう受け取っていたかを追跡する。
 地理的、流通的な観点から言えば、あらかたの集落が幹線交通路から外れ、市の開催もままならなくなるほど衰退する。一部、交通の条件が良い集落は都市へと発展するが、これも、「楽市楽座」が関係しているかというと否定的。
 また、近世の人々は、「楽市」の存在意義をまったく認識しておらず、「楽市楽座」の文書が近世になって公的に利用されるさいには、むしろ、「課役免除」の由緒として提出される。「楽市」というもの自体が忘れ去られていた。
 むしろ、同時代的にインパクトの薄い製作であり、これを大きく扱うのは疑問であると。


 論旨そのものはよく分かるのだが、「楽市」という概念がどこまで戦国時代に流通していたのか、そこが分かったようで分からない隔靴掻痒感。当時の商人たちにとって、「楽市」とはどういう存在だったのか…