戦国時代関係Togetterいろいろ

太閤検地による石高把握ともう一つの意図 - Togetterまとめ

 こうなると、「天下人」の業績に、新しいものがどこまであったのかって感じだな。
 とりあえず、全国基準を作ったこと。自力で検地ができない大名に指導と人員派遣を行なっただけ。全国を、きっちり測ってはいないと。

豊臣秀長は「悪徳高利貸し」? 〜河内将芳「落日の豊臣政権」への反響から - Togetterまとめ

 へえ。 豊臣秀長の印象が代わる話。
 高利貸しをやって、奈良の金融資本を壊滅とか、紀ノ川の木材利権を争ったり。で、蓄財。「豊臣政権は金に汚い」か。
 で、そうやって既存の利権から奪った金で、朝鮮出兵とか政権維持にも投資が行なわれていたと。

教科書に載らない、信玄が川中島に固執した理由とその他の背景 - Togetterまとめ

 川中島で武田上杉が激突した背景とか、戦国大名にとって京都の中央政界がリスキーだった話とか、足利義昭と信長が衝突にいたる政治過程とか。
 上杉にとって本拠を守る重要な前衛の土地で、以前から長野盆地北部の国衆に影響力を持っていた。一方、武田は「信濃」一国を支配下に置きたい。少なくとも、支配下の東信濃の安定のために確保したかったと。
 後は、将軍家を擁することがリスキーである話。三好氏でも、もてあましていた。あるいは、大内氏の滅亡の要因にもなったと。
 最後は、将軍家と信長の関係。義昭と信玄は、信玄挙兵時点では敵対関係にあったと。最初は、反信長勢力が「謀反人」だった。その後、信玄を取り込む政治交渉の過程で、義昭も反信長の立場になってしまう。偶然が重なった結果という話。

真田丸にみる国衆と家臣 - Togetterまとめ

 戦国大名と国衆の関係。真田昌幸は、人質になったため、信玄の知遇を得て、側近となる。結果、国衆にして、譜代家臣という、立場になったと。
 本国の国衆は、譜代家臣と見分けがつかないこともあると。国衆は、普通は大名の行政には関わらないが、本国の国衆や真田家は、両方やっていると。

穴山梅雪と小山田信茂。 - Togetterまとめ

 武田宗家との距離感の違い。
 穴山家が、宗家に近い高い家格をもち、それだけに勝頼相手に距離感があった。独自に生き残り策を模索する。一方、小山田信茂の迷い。
 穴山家は、信念をもって、宗家を見捨てることができたと。

@kurmacfさんによる、「戦国大名」と「国衆」の関係性 - Togetterまとめ

 後半になるほど、細かい専門的な話になるな。
 「一国」を支配するとなると、相良氏なんかは、戦国大名から滑り落ちるな。最小単位は、数郡規模というところか。あと、「国衆」の定義をめぐる地域差。東国では郡規模、西国では地侍と。あと、国人領主と国衆の定義も定めがたいと。
 戦国大名は、国衆の領域には、基本的に口出ししない。直轄の寺社や家臣が関わらない限りは。で、国衆は、戦国大名に従属して、初めて文書を発給するようになるというのも興味深い。そこで、政治的安定を得られる。戦国大名は、国衆の求めに応じて、進出すると。
 滅ぼそうとするには労力がかかるし、他の戦国大名の支援を求めてしまう。そのままにして、保護下に置いたほうが楽と。あるいは、戦国大名時代の「転封」の事例。江戸時代でも、大名家の破綻を防ぐべく努力して、それでも駄目な時に取り潰しが行なわれていると。
 国衆家臣の支持による、戦国大名子弟の養子としての送り込みとか。必要に迫られるまで、統治機構の整備をやらないとか。対北条のための「新たな戦国大名」としての佐竹氏。

時代が特別、というよりは、戦国大名の近世化達成度の評価の差です。年配の方は、戦国大名はすべからく自分の意思で命令を出していると考えがち。でも中世社会では、文書というのは利益を得る人が申請して貰ってくるもの。これがいつまで続くかの見解の相違が根本です。


丸島和洋先生による「戦国時代の名前」解説 「出世魚のようなものと思って下さい。社会的身分が変わると、呼び名が変化」 - Togetterまとめ

 社会的な立場の変化によって、前近代には名前が変わっていったという話。
 実名にしても、政治的関係によって名前が変わる。主家筋から偏諱として一文字もらうことが多いが、主家の滅亡や独立などで、その偏諱を外すことがあると。
 名乗りの流行り廃りもおもしろい。仮名→中央官→地方官と変化していると。江戸時代に入って、四等官の官位が省略されるようになる。あるいは、地元と京都で官位を使い分けるとか。ややこしすぎる…
 そういえば、武士団の系譜を示す「氏」って、どこまで、正確なものなのだろうな。とくに、戦国後期に出てきた家系なんか。まあ、帰属意識とか、そういう風に考えると、歴史的意味はあるわけか。

戦国の陣形、戦術と軍法侍用集とその他諸々 - Togetterまとめ

 そもそも、歴史を通じて、戦闘中に人がどのように動いていたかが、よくわからない。
 小笠原昨雲の軍法侍用集のような、中途半端に現実を反映した史料が一番使いにくいような気がする…

奥州藤原氏と北海道 −厚真町発見の常滑壺から− - Togetterまとめ

 厚真町の遺跡で見つかった、経塚として使われていた常滑壺から、奥州藤原氏が北海道中部まで人を送り込んでいたらしいことが明らかになったと。東北でも、交易の重要拠点に経塚を築いていて、北海道でも同じだろうと。