佐藤正之『船舶解体:鉄リサイクルから見た日本近代史』

船舶解体―鉄リサイクルから見た日本近代史

船舶解体―鉄リサイクルから見た日本近代史

 鉄のリサイクルを、解体された船舶を中心に描いている。全体は三部構成で、第一部は現在の状況。船舶解体産業の地域移動と船舶解体業が起こす環境汚染の問題について。第二部は、近代日本の屑鉄流通とそのなかでの解体船舶から出る鉄の流通。主に1930年頃から戦時体制への包含の過程が詳しい。艦船の歴史をひも解くと、結構有名どころの船が日本で解体されているが、このような船舶解体業が1930年頃(昭和初年ごろ)に産業として自立し、戦後の1970年以降は衰退していく、大よそ一世代程度の存在だったのかと驚いた。あと、中小主体で、現在は衰退した産業にありがちだが、情報が断片的にしか残っていないのだなとも。第三部は、こぼれ話というか、テーマごとに切った話。除籍された海軍艦艇の処理とか、戦前横須賀市であった「津軽疑獄」の話など。


 第一部は、先にのべたように、現在の船舶解体業の状況について。船舶解体業の中心は、ここ数十年で大きく移動し、1970年代には台湾・韓国・中国を中心に、ヨーロッパや日本など広い範囲で船舶の解体が行われていた。特にオイルショック後の1970年代から1980年代には、過剰なVLCCを中心に盛んに解体が行われたが、90年前後に解体数は激減、その後、90年代には再び解体数が増加するがこの時には担い手が完全に変わってインド・パキスタンバングラデシュ・中国で行われるようになっている。
 また、このような地域移動は人件費や環境規制、鉄屑や伸鉄材といった鉄の流通の問題が関係するという。リサイクルした鉄を加熱引き延ばして、建築物用の鉄筋に加工する伸鉄業の存在状況が、船舶解体業の存立に大きな影響を与えること。また、伸鉄業の存在は鉄鋼市場の状況、特に近代的な一貫生産の高炉メーカーの存在するか否かが重要であるらしいのが興味深い。韓国台湾では一貫生産の大規模メーカーが出現する頃に船舶解体業から退出し、現在インドでは中小の鉄鋼メーカーが存在し、伸鉄材の根強い需要が存在する状況が描かれる。
 また、燃料油を中心とする、さまざまな汚染物質がインドなどの解体ヤードを汚染している状況が、グリーンピースに指摘され、現在対策が行われつつある状況が紹介される。


 第二部は戦前日本における船舶解体業の展開。1920年代後半以降、鉄鋼の需要増大と共に、高炉メーカーを中心に屑鉄の需要が増大する。これにつれて、アメリカからの屑鉄の輸入が増大する。また、同時期に、船舶解体を専業で手掛ける業者が出現する。しかし、こうして見ると政府の政策にものすごく影響される産業だったんだな。船舶改善助成施設の影響、日中戦争や国際情勢の緊迫化による鉄価格の上昇に伴う沈船引き上げブーム、解体業者の海運進出、戦時体制の中で統制されていく屑鉄流通と解体業者の沈船引き上げ業者化。
 有名どころの船がちょろちょろとでてきて興味深い。カロニアとか、天洋丸とか、防護巡洋艦秋津洲などなど。天洋丸クラスは、あと何年か解体されなかったら、第二次世界大戦で活躍したかもなあ。


 第三部はさまざまなトピック。とくに十二章の除籍された艦艇の処分が興味深い。売却に至る扱いとか、実艦標的になった艦、さらに日露戦直後竣工の三等駆逐艦、あるいは第一次大戦中に急造された二等駆逐艦やロ号潜水艦が、各地で漁礁にするために払い下げられ、沈められた話とか。漁礁用にはこの程度の大きさの船がちょうどよかったということなのだろう。駆逐艦は二等で600トン台、三等で300トン台、ロ号潜水艦が800トン前後。


 以下、メモ:

 二つ目はそれより少し前の七月六日、同じ『日本経済新聞』社会面のコラム「窓」に載った。潜水艦「なだしお」が解体されることになり、広島県海上自衛隊呉基地から船舶解体業者によって曳航された。「なだしお」といえば、記憶されている方も多いであろう。1988年7月、神奈川県横須賀沖の東京湾で遊漁船と衝突し、遊漁船の乗客・乗員48人のうち、30人が死亡したあの潜水艦である。海上自衛隊呉地方総監部によると、解体業者が入札によって別の潜水艦と合わせて、約250万円で落札した。
 この二つの記事に接する四年ほど前の98年9月11日『北海道新聞』に「根室海保巡視船・旧『くなしり』わずか5000円」が載った。鉄屑として購入する業者を募って入札にかけたが、応募者がなく、個別折衝でやっと5000円で引き取ってもらった。その折り「海上自衛隊の艦艇や海上保安庁の巡視船は日本において解体するが、それ以外の大半の船は日本ではとても採算に合わないので行わない」と聞き及んだ。日本において船舶が盛んに解体されていた第二次世界大戦前、そして戦後しばらくの間とは解体船の価値に大きな隔たりがあり、状況がまったく変化したと痛感した。かつての日本は伸鉄材や製鋼原料の鉄屑を得るために外国から老朽船をしきりに輸入して解体していたのである。変化の経緯を調べていく過程において、船舶の解体が産業面に及ぼしていた重要性も、日本においては急速に薄れてしまったことも認識した。p.10-11

 なんだかんだ言って、潜水艦に値段が付いているのは、船殻の高張力鋼が魅力的なのかね。100万円プラス解体費を賄えるわけだし。普通の船は、日本国内で解体する場合、解体費を請求されそうだな。

 インドなど南アジアの船舶解体国における環境保全・労働安全衛生面の対策強化はつづくであろう。しかし、それが解体能力の増加とは直接的には結び付かない。それらの国においても、逆に環境破壊の進行を背景として環境保全や労働安全衛生の規制強化によって船舶解体業が成立しにくくなるだろう。となると、時期、方式はともかく、船主にとって船舶解体のための積立金が必要となるのではなかろうかという見方が現実味を増すということもありうる。そこまでいかないためにも、言葉の上だけでない実効的な船舶リサイクルシステムの構築が必要となる。p.63-4

 次はアフリカあたりに船舶解体業の中心が移動したりして。微妙な市場構造じゃないと、存続できないみたいだし。人件費が安い、ある程度工業が発達し、伸鉄業が供給される鉄材が売れる建築ブーム、品質が不安定な伸鉄業の鉄筋が売れる規制状態、大規模な近代的高炉メーカーが発展していない状況みたいな条件が必要みたいだし。移動先がないかもな。

 鉄屑のほかに解体船からは厚板、中板、薄板の伸鉄材や非鉄金属のスクラップなども生じます。厚板は伸鉄工場に、薄板は広島県の鞆の船釘製造業者といったように直接納入していました。非鉄金属は銅、真鍮等を細かく解体し、問屋を経由して伸銅メーカーに行く。すなわち鉄屑の直納問屋、伸鉄メーカー、船釘製造業者、非鉄金属屑の問屋と合わせて四通りの取引が存在したことになります。p.89

 メモ。1930年代の船舶解体による発生材の流通経路。

工作用としては鋼材切断用として酸素・アセチレンガスを使用しているが、主要作業たる鋲切断はすべて特殊なハンマーを用いて人力による。p.105

 戦前の船はリベットで接合してあるから、リベットを飛ばしてしまえば、そのまま板が取れるのだな。戦中以降は、外板が溶接されるようになったわけだが、それが船舶解体にどういう影響を及ぼしたのだろうか。

 それならば日本の船でもよさそうだが、解船屋のいうのには「日本の船は外の方にはきれいにペンキを塗っているが、いよいよそれを壊してみると、やせていて役に立たない。それに対して、外国の船は外見は真っ赤に錆びていても、材料は衰弱していることが少なく、じつに強く立派だ」となる。日本では船齢68年というような古い船が使われているし、船の型が一般に小さく、伸鉄材料が少ししか得られないということもある。現に私も川崎の鋼管会社裏の掘割で外国のタンカーを解いているのを見てきたが、船体材料は相当しっかりしていた。日本の船に比べて伸鉄材になる割合が格段に高い。さらに日本の船はエライ高い借金を背負っているから、銀行屋さんとの関係で解きたくても解けないのが現況である。p.114

 このあたり、製鋼技術の差なのかねえ。1930年代に入っても、外国航路の定期客船なんかは材料を含めて輸入していたみたいだし、そのあたりからして格差があったのかも。あとは、安普請だったとか。

 昭和9(1934)年、岡田商店の主人、岡田(菊治郎)は解体船四隻を隅田川に曳航させた。これは当時の払い下げ駆逐艦1000トンクラスを買い入れたもので、両国河岸にクレーンを垂らし、岸壁で解体作業をする幼稚な方法であった。しばらくの間、この駆逐艦を一目見ようという見物人で河岸は埋まった。この解体したスクラップをそのまま圧延材料として使う当時としては画期的な伸鉄設備を生みだして岡田は稼いだ。p.120

 ぱっと調べると、1934年に1000トン以上の一等駆逐艦四隻というのは、ちょっと見あたらないのだが。1000トン以上の駆逐艦って、第一次大戦直前から建造が始められて、第二次大戦前に除籍されたのは10隻。しかも、34年に江風が除籍された以外は、35-6年にかけての除籍なんだよな。樺クラスなんかの二等駆逐艦は、漁礁にされた例が多いみたいだし、排水量も600トン程度だしな。

 すなわち、36年1-9月にトン当たり50円ないし60円だったアメリカ屑は漸騰して37年4月以降には100-115円と二倍になった。p.165

 109ページから110ページ当たりに、何隻か艦艇の売却価格が紹介されている。1927年に売却された防護巡洋艦秋津洲が10万2000円で売却、ドンガラがおおよそ2500トン程度だから、1トンあたり40円ほど。潜水母艇長浦こと通報艦龍田が売却価格5万1390円で空だと400トン程度、1トンあたり128円。水雷艇白鷹が9500円で売却、空の状態では100トン程度で95円ほど。秋津洲はともかく、龍田、白鷹では採算が取れたのだろうか。非鉄金属も含むだろうから、単なる鉄屑よりも高くはなったんだろうけど。

 横浜のほうでは横須賀市の追浜に解体工場を設けました。解体から生じた鉄スクラップは千葉の川崎製鉄と川崎の日本鋼管三菱商事経由で納入していました。甘糟にはメーンバンクがなかったために、解体船の購入にさいして商社金融に依存したということです。したがって、三菱商事の側からすると、船の購入、鉄スクラップの納入の二回にわたってマージンを稼ぐといった形になります。チリの戦艦ラドレ号(2万6000トン)を59年に横須賀市の安浦の海岸で解体したこともあります。曳航に保険をかけずに、また、真鍮のスクリューを別途購入して載せてくるなど採算を取るのに苦労しました。p.213

 この「ラドレ号」というのは、アルミランテ・ラトーレのこと(アルミランテ・ラトーレ級戦艦 )「戦艦カナダ」の項では、同艦の部品が三笠の復元に利用されたとか。しかし、第一次大戦で活躍した超弩級戦艦の解体を目の前で見るとか、うらやましい。

 海軍がどのくらいの金額で売却したかは公文書で判明するケースが少なくないが、入手した側がそれをどのような形で解体し、どのくらいの利益を上げたかまではなかなか分からない。その例外が、日清・日露戦争において軍艦として活躍した厳島(初代)である。1925年10月9日『大阪毎日新聞』に載った「日本三景艦として名高かった『厳島』がタッタ13万円、8日呉の入札で落札」とそれを落札した飯野商事呉支店のようすを記述した『飯野60年の歩み』(飯野海運、1959年)によって、その経緯を明らかにしよう。厳島は1891(明治24)年にフランスのツーロン造船所で建造され、橋立、松島とともに三景艦と称された。
 まず『大阪毎日新聞』の記事だが、当時の入札のようすがよく分かるので、前半部分はそのまま再録する。「廃艦厳島(4250トン)の公入札は8日、呉海軍工廠購買課で原田課長立会のもとに阪神、広島、長崎その他各地から集まった46人により入札を行ったところ、舞鶴飯野商事株式会社呉支店に13万4440円で落札したが、1トンあたり僅かに27円余である」となる。
 一方、『飯野60年の歩み』によると、開札の結果、飯野商事が14万余円で落札したとあり、「そのころ、入札する商人は談合して新規参入を認めなかったので、花田(卯造)呉支店支配人は苦心の末、入札参加に成功した」と記述されている。そして伸鉄材や鉄屑などの販売総額21万1974円から解体にかかわる総費用18万7306円を差し引いて2万4668円の純利益を上げたと記載されている事実が貴重な資料となっている。
 解体にかかわる費用に関しては内訳があり、厳島の買受代金が14万61円、解体費3万5150円、運搬費4494円のほか、解体に先立って厳島艦上で挙行した解体式費、係留費などから雑費に至るまでの細かな数字が並んでいる。文章から判断すると、買受代金イコール落札値段ととれるが、新聞報道による落札価格との5600余円との差がなにを意味するかは公文書が見いだせなかったこともあって突き止められなかった。
 そのほかにも、1厳島を呉軍港から吉浦港に曳航、繋船して解体作業は福岡県八幡市の入江賢介に2万5000円で請け負わせ、約8カ月で完了した、2バラスト(軍艦のつりあいをとるためのおもり)には鉛があるとの予想であったが、解体してみると鉛はまったくなかった、3当初、厳島の処分は解体か転売か未定だったが、海田市(現在は広島県海田町)の佐古田商店から3000円の差金で引合があり、次いで大阪の業者から差金3万円で買い取りの申し込みが出るに及んで解体することに決めた――という興味深い記述がみられる。p.240-1

 船体よりも解体費が相当安かったのだな。当時は人件費がずいぶんと安かったのだろう。