谷干城銅像

 高橋公園の中央に建てられている銅像。元は本丸にあったもの。台座の碑文がなかなか読めなくて、ずっと放置されていたもの。やっと、台座の裏表とも読めた。台座表の漢詩なんか、字がさっぱり読めなかった。読み下し文をもとに、だいたい推測。○にしているのは旧字体で、変換できなかった文字。昭和12年の設置だから、戦意高揚の意図があったんだろうな。
 銅像そのものは、戦時中に金属供出されて、戦後同じ型から再鋳したものなのだそうな。→谷干城の銅像(たにたてきのどうぞう):熊本城公式サイト




台座正面

守城将軍谷干城


四面皆賊簇似雲城在雲中級々分
満目今日真火国市廛邨落一時焚
城兵如魚在釜中城将心居泰山安
破裂丸飛烈焔迸雲梯笑渠学魯般
忽使萬雷発自地火牛何必○田単
六十日間無虚日攻守一日幾艱難
軍粮如山山亦○頼有我兵力能殫
雖能殫力色欲菜千竈烟絶兵気寒
知是都督援軍到大喊声隔一山聞
城兵驀地出撃賊賊軍崩去似倒瀾
嗚呼 日本国中已無城
唯有此城遮賊気守城者誰谷少将
築城者是当年鬼将軍


 丁丑夏日熊本城下作 古竹老衲岳



台座裏面

明治十年二月二十二日西郷隆盛大挙来りて本
城を囲む鎮台司令長官谷少将寡兵を以て堅守
する五旬その情景は僧五岳の詩に躍如たり隆
盛威望夙に著る当時形勢を観望せし者少から
ず本城其の鋒を挫くに非ざれば天下の事未だ
知る可からざりしなり則ち明治政府の規模確
立し国民皆兵の曩制恢弘せられ日清日露の戦
役に連勝し国威世界の光華となれるも実に本
城善戦の功に本づくものとす嗚呼偉なる哉当
地有志夙に彰功の議あり本年再び丁丑に当る
を以て本会を組織し高知並に本県を始め天下
の協賛を得て将軍の銅像を建てて当年嬰城将
士の忠誠を伝ふ像は彫塑界の泰斗朝倉文夫
の丹精に成る以て永く将軍の威容を仰ぐに足
らん夫れ本城は加藤肥後守の築く所此の名城
に非ずば争てか天下を捍ぐを得ん自今此の城
を訪ふ者事功の自ら千古なるに感起し皇国精
神を発揚せしは本会の翹望する所たり若夫れ
当年攻防地を異にせし諸士も憂国の至情に於
ては相同し本会は茲に諸士の英霊に敬意を表
するや切なり
昭和十二年十月   西南戦争六十年会