伊藤正敏『寺社勢力の中世:無縁・有縁・移民』

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

寺社勢力の中世―無縁・有縁・移民 (ちくま新書)

 中世の大寺院を、さまざまな「有縁」の世界で生きていくことができなくなった人々が駆け込む「無縁」の場、そういう人々が集住する「境内都市」であったこと。そして、そのような無縁の場が、社会全体に強力な影響を及ぼしていたこと。それが、中世を通じて持続し、それが、天下人によって終わりを迎えたときに、中世が終わるとまとめている。
 寺社とそこに集う人々にフォーカスを置いた中世史。そこにある自由と、その自由が「ジャングルの自由」であることなど。敗者や経済的難民が逃げ込むことができる場であり、再起を期する場であった。また、その宗教的権威が朝廷や武家に強い影響力を及ぼしていた状況。


 第一章は比叡山門前町としての京都を紹介。強力な軍事力を保持し、それによって武家などの介入を拒絶していた状況など。
 第二章は「境内都市」として、高野山根来寺などの境内にさまざまな人々が集住し、学術、金融、商業、工業などの経済活動が集中していたこと。武士に順ずる名誉や武勇の観念があったこと。大名に準じて遇されていた状況や領主としての大寺院など。
 第三章は「無縁所」である寺院がどんな場所であったか。武士や公家身分の学侶ではなく、平民身分の行人や聖が数の上で多数を占め、実権を握っていた状況。真言密教などの教説より、より単純な「ダイシ信仰」が核になっていたこと。限定的ながら平等の原則や、さまざまな自由、域内を「平和領域」と使用とした努力など。無秩序の中で、ある程度の秩序を生み出そうとした状況が語られる。
 第四章は、「無縁所」が有縁の社会である「国家」、幕府や朝廷にどう対したかの歴史。武家や公家と構成員がかぶっていた状況。権力者が自身で寺社を建立し、対抗としようとしたこと。比叡山興福寺と他の有力寺院が対立した場合に、対立者を支援して、それらの勢力を抑えようとした状況。しかし、結局のところ、院政期から鎌倉時代を通じて、有効な対策はとられなかったこと。
 室町幕府の時代になると、有力寺社の権益に挑戦し、土倉や酒屋などへの課税、検断権を幕府側に確保、叡山末の祇園社や北野社を支配下に入れるなどの、挑戦が行われた。しかし、このような動きは長くは続かず、幕府の権威の低下とともに元に戻った。また、幕府の財政に食い込むことによって、むしろ叡山関係者が、幕府の実権を内部から確保してしまうような状況になった。
 戦国時代に入ると、京都の町衆など、各地の都市に地縁的な「自治集団」が出現する。また、15世紀の後半には、「家」制度が形成され、「無縁」の場に「有縁」の身分制度が出現するに至る。また、宗教的・呪術的な権威の低下、「有縁」社会の身分の流動化の中で、「無縁所」の権威・存在感は低下していくことになる。
 終章では、「無縁所」の終焉。信長・秀吉ら天下人が、自らに敵対する者も受け入れる無縁所を否定し、場合によっては物理的に破壊していくさまを描く。


 以下、メモ:

 人間は自分にとって都合のいい嘘を真実だという生き物だ。鎌倉幕府が作った編纂物の、『吾妻鏡』が幕府自身を語っている部分、つまり吾妻鏡本文の記事は、そのまま信ずることはできない。だが、研究の結果、吾妻鏡には、合戦の報告書など幕府の手許にあった文書、また公家の日記が、原文どおり引用されていることが解明された。『吾妻鏡』は本文でなく引用文、編纂のもととなった素材が貴重なのだ。p.17

 へえ、風土記逸文みたいな話だな。

 結局、興福寺が聖弘を捕えて朝廷に引き渡し、朝廷は彼を鎌倉に送り、頼朝自身が直接尋問することになった。尋問の模様が『吾妻鏡』でわかる。聖弘の声を聞こう。


 自分は国家安泰のため、義経の平家追討に当たって勝利を祈願した。それから義経との師弟関係が始まった。義経が頼朝と対立した時、一旦は危険を避けるため逃がし伊賀まで送ってやった。その時義経に頼朝にわびるように勧めた。そもそも関東の今の安全は義経の武功によるものだ。それなのに讒言を聞き恩賞の地を取り上げるようでは、反逆の心を起こすのも当然ではないか。速やかに怒りを解き、兄弟の仲直りをはかるべきだ。和解さえできれば、国の平和はたちどころに回復できるはずだ。


 勇気あるセリフではないか。捕えられ生命の保障もない状況での発言である。匿ったことを認めたうえでの発言である。敗者の正義を説き勝者の驕りを叱責する。初めて会った頼朝への諫言である。感銘を受けた頼朝は、彼を許したのみならず、父義朝の冥福のため建立した鎌倉の勝長寿院の供僧に任命した。事実のほうが物語以上に感動的である。p.22-3

 これはかっこいいな。

「母国」の保護もなく束縛もない「駈込人」たちは、どのように自らを再生しようとしたのだろうか。共同体を飛び出して自由に行動する、とか、限りない自由の場で飛躍するといえば聞こえはよい。だが中世では……いやいつの時代だろうと、ただ単に束縛を離れて自由になるということは、ただちに餓死の危機に直面するうえに、攻撃されても誰も守ってくれないのだ。「自由即死」、自由はすなわち死を意味する場合がほとんどだ。試しに今ただちに、家を出てみればわかる。生き延びるため、また成功するためには、幸運と個人的実力が必要だから、結局、無縁の場は自由競争の世界であり、弱肉強食のジャングルの掟の支配下にある。敗れて死んでいった人のほうが多かったはずである。p.30

 自由と裏腹の危険。逆に、隷属身分として自由を売り渡して生存を図る方向性もあったわけだが。

 叡山がこの地を獲得した時期は南北朝時代であるが、獲得した理由には注目すべきものがある。近江坂本の日吉社の神人の殺害事件があり、叡山は殺害現場だったこの広大な土地を、神人の墓所として獲得した。神人の怨霊の祟りを鎮められるのは、その神人の所属する寺社だけ、という論理による。これを「墓所の法理」という。日吉社延暦寺は、神仏習合の中世、同一の「仏かつ神」の二つの顔とみなされた。この法理は鎌倉時代末期から東大寺・新熊野社・聖護院・叡山、さらには山伏集団など、寺社勢力によって主張された。「墓所」としてほぼ一つの荘園に相当する大きな土地を要求するのが普通であった。犯人でもないのにこんな一等地を失った元地主はいい面の皮だが、こういう呪術色濃厚な法理が現実に機能していたのが中世という時代なのである。室町時代の叡山は、すでに衰退しつつあったが、管領畠山氏による押領の企みを退けてこの地を保持し続けた。p.41

 現在の松原通新町通りの交差点の北側に比叡山が広大な土地を持っていた。その土地を確保した理由が興味深い。殺人事件の現場を「墓所」としてゲットか。中世の町並みが再現できる土地らしい。

 二つの田楽の間、嘉保二年(一〇九五)、山僧の嗷訴があった。初めて日吉神輿を担いでいた。神輿動座の最初である。神輿は神の乗り物であり、動座とは、座して決して動いてはならぬ存在、神や天皇が動く異常事態である。祭の式日に定まった御旅所に行く以外動かない神が、自ら輿に乗って朝廷に迫り訴える。恐怖の奇跡である。朝廷は内裏への侵入を防ぐため、検非違使と武士に命じて警備させた。関白藤原師通は神輿を射ることを命じた。これは神輿に乗る日吉の神を射ることを意味する。師通は報いとして神矢を眉間に受けて重病になり、母が神の許しを求めて祈願したが空しく、その寿命は三年しか伸びず、三十八歳の若さで没したと摂関家では信じられ、恐怖の伝説として受け継がれた。師通の曾孫にあたり天台座主慈円の『愚管抄』に書かれている。この時世界が変わったのだ!p.53

 おもしろいね。人が担いでくる神輿が、神が動く奇跡とされるのか。で、神輿を射た関白が呪いで死んだとすれば、そりゃ制止もできなくなるわな。

 鎌倉幕府はこの日本最大の祭礼を無視した。『吾妻鏡』に祇園会の記事は片言隻句もない。平安京の鎮守とされる賀茂社の記事は頻繁に現れる。頼朝は賀茂祭に参列している。幕府は叡山を無視したいのだ。また京を古代の平安京の枠内に封じ込めたかったのだ。当然ながら貴族の日記には、毎年最大のイベントである祇園会の模様が詳細に記される。p.67

 へえ。おもしろいなあ。がん無視とは。

 では朝廷・幕府史は復元不可能かというとそうでもない。寺社文書に朝幕の法律や命令が偶然残っていることがある。これを材料に鎌倉・室町幕府法の条文を復元するのが常道である。永仁の徳政令の本文は、若狭の百姓が東寺に提出した訴状の添付史料でわかる。土地売買証文の但書に幕府法が引用されていて、これにより法が復元できるのだ。
 政治の動きも次のようにして復元できる。「○月○日の合戦で○にある私の土地の証文が焼けたので、隣人たちに証人になってもらい、権利を再確認する」という文書があれば、政治事件の日時と場所がわかる。幕府文書から幕府の実態を復元しようとしても、存在しないのだから不可能である。付言すると、鎌倉幕府研究には致命的ともいえる欠落がある。幕府の財政基盤が全くわからないのだ。幕府は御家人たちに軍事奉仕を要求するだけで税などは取らない。幕府の運営は、幕府直轄領、関東御領(将軍名義の荘園)からの年貢を使って行われた。ところが幕府文書が存在しないため、関東御領がどこにあり、年貢率がどうだったか、などの基本的問題がわからない。一方、寺社の財政はわかるところのほうが多い。最初に述べたように、寺社文書と貴族の日記によって、幕府の姿はぼんやりと浮かび上がってくる。ただし、ぼんやり、以上ではない。p.78-9

 幕府や朝廷の文書類が失われているため、直接文書を使った研究ができないという話。鎌倉幕府の物的基盤も分からないのか。本当に基本的なことが不明なんだな。

 寺社空間は「どれほど」ぜいたくなものであったか。戦国時代の京都を描いた『洛中洛外図』を見ると、寺社はすべて瓦葺、御所・内裏・管領邸が檜皮葺、町屋は板葺、農家が茅葺または草葺、と明瞭に描き分けられている。費用は、瓦・檜皮・板・草の順に高価である。風俗のちがいではなくステータスの差の反映である。世俗世界は、権力者の政庁であっても貧弱な施設を持つに過ぎない。宮殿・御所建築でも、古い時代ほど土に柱を埋めこんだ掘立柱の建物が多く、基礎に礎石を使うことは少ない。俗人の家屋敷はたとえ天皇家摂関家のそれでさえ、東大寺大仏殿・興福寺五重塔根来寺大塔などの足元にも及ばない粗末なものであった。寺院を超える豪華建築は、安土城以前には皆無である。p.82-3

 寺院というのが、当時としては非常に豪華な空間であったという話。まあ、奈良時代には極彩色だったというのとつながる話かな。

庶民の立入りが、自由に、そして原理的に可能だったのは、無縁所たる寺院境内だけであった。一切衆生、すべての生きとし生けるものに対し門戸を閉ざすことのない仏教思想の果たした役割は大きい。境内は立入りをとがめだてする厳粛で閉鎖的な聖地空間ではないのだ。女人禁制も建前の域を出ない。女人禁制で知られる高野山でも、戦国時代には境内の宿坊に夫婦で参詣人が宿泊している。p.90

 こういう観点では現代の寺院は後退しているような。中世には女人禁制は機能していなかったのか。

根来寺境内の家は、ほとんど瓦屋根で仏具も出土しており、明らかに寺院である。根来寺境内は、その全域が。法体職人が集住する一大工業都市だったのだ。これは衝撃的な発見であった。p.96

 この場合、瓦屋根は寺院としてのステータスを示すだけではなく、都市の防火の機能をも果たしていたのかもな。地図を見ると狭い境内に家屋が密集しているから、防火の必要は大きかっただろうし。そう考えると、近世の都市の先駆といった感じもあるな。
 あと、根来寺境内にさまざまな職人が集住していたというのが興味深い。

 中世寺僧は、「発心して出家した個人」の集合ではない。僧の家という世襲の職業集団なのだ。建前上期待される僧侶像は前者かもしれないが、それはむしろ例外である。彼らを破戒僧と貶め、寺院の堕落として非難する俗人は中世にもいた。だがその後江戸時代に、元凶の水戸光圀及び新井白石以下の儒者が誹謗を積み重ねたのが大きい。非難の大わめきが日本中に満ちあふれた。比叡山焼討を賛美すらした。今日でさえこういう偏見が学者を含む多くの人の先入観となっている。寺社勢力への中傷が後を絶たない。非常に厄介だ。p.101

 当時と今では常識が違うんだよな。戒律からすると、僧が家を形成していること事態が問題のような気もするが。

 横川の源信が著した日本浄土教聖典『往生要集』は、越前の敦賀を経由して中国に伝わり、かの地でブームを巻き起こした。古くから叡山は外国と縁があった。p.119

 へえ。

 近代警察制度確立以前、非合法または未公認の武力集団を公認して、警察力として利用するやり方は政府の常套手段であった。いや終戦直後ですら、無警察状態の東京・大阪の警察機能の多くを公的に、あるいは暗黙の委任のもとに代行したのは暴力団であった。いうまでもなく「検断得分」を伴っていた。山口組の田岡一男は、治安維持への貢献により兵庫県警水上署の一日警察署長を勤めている(宮崎学『近代ヤクザ肯定論』筑摩書房)。p.134-5

 まあ、近代以前の「治安」というもの事態が、洋の東西を問わず、摩訶不思議な存在だけどな。

 ひとことで主従制といっても、1「主人個人」に仕える主従制、2「主人のお家という非人格的組織」に仕える主従制、の二つの観念が混在しており、原則は1だったのだ。ヤクザの親分子分の主従関係、その建前を見ればわかるが、人格的結合関係というものは、元来、1の人と人との一対一の関係以外はありえないのだ。
 戦国時代以前の武士には、第一に、無縁所に属するか家中(家臣団)の立場を取るかの選択がある。後者を取る場合、第二に、主君個人に属するのか(中世的)、お家に属するのか(近世的)という動揺がある。主従制は全く未成熟なものだった。p.203-4

 近世の主従制でも、代替わりごとに再確認が行われているわけで、主従関係の「個人性」というのは根強いものがあると思う。

 古代の村は、国造出身で律令制下で郡司を勤めた古代豪族の大家族などを代表とする家族とその所有地である。大きなものは百人もの人々からなる。古典的有縁世界といってよいだろう。だがこの村と家は王朝国家の悪政によって跡形もなく破壊された。
 続く中世の村は住民の流動性がはなはだしく、村の範囲も確定していなかった。御成敗式目に「村人の去留の自由」という規定がある。住民は年貢さえ完済すれば、その後はどこに行こうが自由であると定められていた。領主からすれば、来年年貢を納める人が誰もいないという困った事態も考えられる。こんな規定が果たして実効していたのかと思われるが、一三一四年、瀬戸内海の製塩の島、東寺領弓削島荘の荘民は、代官の罷免要求が容れられないのに怒り、本当に「今年分の年貢の塩は納めました。はい、さようなら」と立ち去ってしまった。中世社会は常に移民を生み出す構造になっていた。中世の村の地縁、その有縁性は決して強いものではない。むしろ一種の無縁世界とすらいえる。p.226-7

 このあたりの定住の変化ってのは、実際地域史を考えるとよくわからなくて困るんだよな。あと、このあたりの流動性は、近世に入ってもしっかり残っていたんじゃないかね。奉公なんかで、移動するのは結構当たり前だったんじゃなかろうか。そして、そういう移動には、何らかの「縁」をたどっていたんじゃなかろうか。

 自治都市・自治村落を構成する「家」が成立するのはいつか。その前に家とは何によって定義づけられるのか。家とは1世襲の名乗(第○代木村庄之助、などの類)、2世襲の財産、3世襲の家業、などを持ち、永久に続くべき「経営体」である。世襲的な商店を考えればよい。家の成立とは、123が固定して変動しなくなることと同義である。それはいつだったのか。これは日本史における最重要問題の一つだ。p.227

 まあ、完全にこれが固定できるのは、あまり多くないと思うけど。近世を通じて。