森杲『アメリカ職人の仕事史:マス・プロダクションへの軌跡』

アメリカ職人の仕事史―マス・プロダクションへの軌跡 (中公新書)

アメリカ職人の仕事史―マス・プロダクションへの軌跡 (中公新書)

 工業化の歴史を描いたものとしては、なかなかすぐれていると思った。
 アメリカで大量生産システムが発展する過程を、職人の技能や社会意識を中心にして描いている。アメリカ的生産システムの端緒としてよく紹介されているスプリングフィールド兵器廠での小銃の互換性部品による生産が、価格競争力を度外視して実現された特殊な事例で一般化するべきでないと低く評価しているのが興味深い。分業が進んでいない社会で、広い範囲の技能を身につけた職人が伝統的になったこと。それが、分業する形で機械や工場などに適応して行ったこと。しかし、熟練の形が変化していき、最終的に職人たちは工場の規範と相容れなくなり、消滅していくことになる。結果として、ヨーロッパや日本のような手工業の「職人」が消滅してしまうことになる。
 豊富な森林資源を背景にした木工の伝統や木製時計を始まりとする大量生産と規格化の動きの紹介が興味深い。むしろ金属製品の大量生産や互換性部品というのは、最後なんだよな。で、車や飛行機のような大型の輸送機械は、そのなかでも最後と。やはり、自動車の場合、かかる力が段違いだし、要求される精度が変わってくるのだろう。その点では、ミシンや自転車、時計あたりが、金属製品の大量生産としては先行するんだろうな。で、そういうのは別の企業が作った部品を買い集めて、アッセンブルするだけでも、何とかなる部分がある。そこまでは、大戦前の日本でも、なんとかなったんだよな。逆に言うと、自動車生産のような精度と強度を要求する製品って、他に何があるのかね。
 後ろの三分の一程度は、大規模な工場が出現する中で、誰が工場などの組織を管理するかの問題。熟練のあり方も、多様な幅を持つものから、単能的な熟練へと変化していく。さらに、職長や内部請負といった職人の系譜を持つ管理者から、エンジニアなどの専門管理職への移り変わり。その際の軋轢などを扱っている。結果として、管理専門のエンジニアが全体を見渡して組織する形態変化することに。


 以下、メモ:

 私の実感からすると、とうていそうは思えない。外国の学者の馬力と息の長さにはいつも圧倒される。サラリーマンが会社を離れたとたんに勤勉さも活動力も失うという、その落差の大きいことで、日本をこえる国はないかもしれない。幕末から明治初期にかけて日本に住んだイギリス人やアメリカ人の目に、日本人は「どんな仕事をするにものろのろしている」「なまけ者」「思考力を欠き、創造力もない」などと映ったらしい記録が残っている。札幌農学校の教頭として赴任したクラークも、日本人が「みな太っていて、陽気で、のんびりしている」という印象を書いている。だかこんなふうに書いた西洋人の母国が今は、たとえばイギリス病などといわれて国民の働きぶりの低さが問題にされているのである。要するに人々の勤労態度は、生まれながらのものというよりはるかに、特定の時代の条件やしくみのなかで、高まったり衰退する要素のほうが大きいと思われる。だからその時代と条件を知ることが、勤労態度を説く前提として必要になる。p.2-3

 ある「国民」が勤勉とか、怠惰とかいう論説はあてにならないと言う話。まあ、日本人の「モーレツ社員」なんてのは出世の可能性と共同体内での評価の競争の結果だからな。やめたら、働かなくなるのは当然だろう。