ブラッドフォード・C・スネル『クルマが鉄道を滅ぼした(増補版):ビッグスリーの犯罪』

クルマが鉄道を滅ぼした―ビッグスリーの犯罪

クルマが鉄道を滅ぼした―ビッグスリーの犯罪

 1974年に、GMを中心とするビッグスリーの自動車、陸上交通における寡占の弊害を指摘した、議会への報告書を翻訳したもの。しかしまあ、40年近くたっただけに、自動車業界はどこも様変わりしていて、なんとも。GMが一旦、破綻したり、クライスラーは何度も売られたり。アメリカに進出したことがないなんて言われていたのが、トヨタをはじめいろいろなメーカーがアメリカ国内で現地生産をやっていたり。あとは、本書は、基本的に工業の保護主義の立場に立つ(海外の工場の売却と輸出への代替など)が、この時代の経済思想の中での位置やその後の貿易自由化の流れも気になる。自動車や鉄道に詳しい人が読みこんで、がっつり解説するとよりおもしろいだろうな。
 GMによる自動車会社の買収による寡占支配。頻繁なモデルチェンジを繰り返す、部品から流通に至るまでの垂直支配が、参入障壁を形成する。その上で、革新的な技術の導入の拒否、独占価格による経済的損失などの損害を合衆国社会に与えたと指摘する。その上で、乗用車の寡占を成し遂げた後、バスの販売促進のために、合衆国の各都市に存在した市街電車を買収し、GM製のバスに入れ替えさせる。渋滞に巻き込まれるなど、公共交通の利便性が低下し、それが乗用車の市場を拡大させた。また、幹線鉄道に関しても、GMディーゼル機関車の製造企業を買収して、参入。最大の荷主であることを利用して、自社製ディーゼル機関車を導入するように圧力をかけ、電気機関車と比べると経済性に大きく劣るディーゼル化へと逆転させる。結果、鉄道の競争力を大きく削いでしまったと指摘する。電化が進んでいた鉄道の電気設備を廃棄させたあたりのくだりは、ゾッとするな。今だったら、独占禁止法でやられそうな気がする。
 本書は第一部が独占の弊害についての理論的なまとめ、第二部が先に述べたようなGMによる陸上交通の自動車化と代替交通手段の破壊の状況について。第三部は、このような寡占状態を解消するためにビッグスリーを各地域に分散している工場や交通機関の分野ごとの解体再編を提案している。続いて、その実現可能性やそれ以前の独占禁止法の当局の動きのまとめなどに言及している。ただ、実際にビッグスリーを解体して、競争状態を回復できたのだろうか。そこは疑問。1930年代から、常に飽和した市場でどのように需要を喚起するかという問題もあるわけで。あと、1920年代あたりのさまざまな企業が参入していて、部品は部品メーカーが、組み立ては組み立てメーカーが担当する水平分業の市場構造への回帰を主張するが、これ以降の市場の状況を考えるとそれは無理だったんじゃないかねえ。確かにGMの企業買収による寡占市場形成はやりすぎだったとは言えるが。せめて、エンジン、ギア、シャシーは自分のところで技術を持ってないときついんじゃないだろうか。
 時代状況の違いはあるが、いろいろと興味深い本だった。日本でも、自動車会社の寡占の問題はあったのではないだろうか、特に各都市の市電の撤去などで。一方で、国鉄という国営組織であったことが、鉄道を守ったのかな。あるいは、モータリゼーションの時期の違いが意義をもったのか。新幹線投資と高速道路への投資が同時に行われ得たのはなぜかとか、いろいろと考えるところが。あと、米英のアングロ系の国で鉄道がグダグダになって、独仏をはじめとする大陸ヨーロッパでは相対的に鉄道が地位を保ったのはなぜかとかも、興味深い問題ではある。
 GMやフォードがアメリカとナチスドイツの双方にまたがって軍需生産に貢献した事例をひいて、自動車メーカーの多国籍展開が、アメリカの安全保障に問題であると主張しているのも興味深い。同時期に、ソ連自動車産業に投資しようとしていたみたいだし、この時代にはそういうのが現実的に脅威だったんだろうな。現在では、自動車産業軍需産業への転用は限界があると思うが。


 以下、メモ:

 これらの事例からベイン教授は、この産業では「ライバルであるはずの寡占企業同士の極度の模倣的な生産方針が、入手可能な製品を基本的に均一にし、製品の潜在的な多様性を抑えていると考えられる」との結論を引き出している。
 製品の模倣という共同の独占政策がビッグスリーを早期に小型車を導入することに消極的にした。おしなべて言えば、これらの会社は消費者の嗜好の変化に応えるのを阻んでいた。p.34

 独占企業同士のなれあい。

 たとえばドイツでは、GMとフォードはナチスの戦争努力の不可欠の部分を占めるようになった。GMのドイツ工場は、ナチス・ドイツ空軍用に、何千もの爆撃機とジェット戦闘機の推進システムを組み立てていた。アメリカの工場で、アメリカの陸軍航空隊に航空機用エンジンを生産していたのと同じ時期のことである。
(中略)
 GMがドイツの戦争準備に参加しはじめたのは早くも1935年であった。その年、そのオペルの子会社はドイツ第三帝国と協力してブランデンブルクに新しい重量トラックの工場を設立した。そこは陸軍高官のアドバイスで、敵の空襲でたたかれにくいからということであった。その後何年かの間GMはベーアマハト(訳注:第二次世界大戦中のドイツの国防軍)にオペルの“ブリッツ(電撃攻撃)”トラックをブランデンブルクコンビナートから供給した。こうしたことその他の戦争準備に対する貢献で、GMの海外事業の最高責任者は、1938年、アドルフ・ヒトラー総統からジャーマン・イーグル勲章第一等を授けられている。
 フォードもまたナチス・ドイツの戦争前の準備には積極的だった。1938年、たとえばフォードはベルリンにトラック部品工場を開設したが、その真の目的は、アメリカ陸軍の諜報部によると、ドイツ軍用に“軍隊輸送タイプ”の車を生産することであった。その年、フォードの最高幹部はナチ・ジャーマン・イーグル勲章を受けている。
 GMとフォードは、米国とドイツ双方の戦争経済の中で構造上支配的な位置を占めていたため、第二次世界大戦の進行に影響を及ぼす力をもっていた。たとえば彼らは、どちらの交戦国が戦争関連技術の最新の成果から利益を引き出すかを決定することができた。当然、戦争の前段準備への協力を拒否することは考えられなかった。拒否しても結局は工場没収になったであろうし、GMとフォードの株主に取り返しのつかない経済的損失を与えていたであろう。p.45-6

→U.S.Strategic Bombing Survey.Munitions Division.Motor Vehicle and Tanks Plant Report.Adam Opel-Russelesheim,Germany 1-26
U.S.Strategic Bombing Survey.Munitions Division.German Motor Vehicles Industry Report 6
 航空エンジンの生産や「合成テトラエチル燃料」製造の技術供与の話なども。あるいは戦後は補償をせしめているとか。

 自動車産業完全雇用と国際貿易の収支の均衡化に対する貢献も、ビッグスリーの多国籍経営によってマイナスの影響を生じている。戦後海外で大量に自動車工場を建設したために、米国内で輸出用の小型「世界向け車」などを組み立てようとはしない。それは輸入車に対抗して国内で小型車を生産しなかったのと同じである。その代わりに彼らは、米国での独占利潤を確保し、外国市場での売り上げによってさらなる利潤をかき集める世界市場戦略を追及していると思われる。より明確に言うと、彼らは米国では大型で価格の高い車の販売に力を入れているが、海外ではもっと小型の経済的な車を作っている。
 こうした方針が国内の雇用と貿易収支に与える影響は多大であったと思われる。1972年、ビッグスリーの外国子会社は、海外44カ国の200近い工場で生産した車を500万台販売した。少なくともこれらの車のいくらかが代わりに国内で生産されて輸出されていたら、自動車製造業に新たな職場を生み、関連産業にも職を増やし、そして貿易収支にも良い影響を与えたであろう。このように自動車メーカーの多国籍経営が、米国に政治的経済的に最良の利益をもたらしたか否かを問う理由はあるのである。p.54-5

 このあたりは、ずいぶん昔風だな。国内雇用は日本でも問題になっているが、ここまでの主張はできないような…

 手短に言えば、グレイハウンド社との密接にからみあった利害関係と利益増進への援助を通じて、GMは米国の都市間旅客輸送の様式に少なからぬ影響を行使したのである。最大のバスメーカーとして、GMは不可避的に、都市間交通を鉄道から都市間バスへと転換させる方針を追求することとなったのであるが、そのバスはGMが製造しグレイハウンドが事業として経営するものだったのである。
 この方針は、投資した株主への見返りを最大にするというGMの正当な関心事と完全に適合するものではあったが、必ずしも利用者大衆にとって最も都合の良いものであるとはいえなかった。実際、大衆は実質的にバス以外の都市間交通手段を剥奪されたのであって、それは市民によってメリットがあるかどうかにかかわりなく、明らかに一般市民ではなく企業の決定の結果として選択肢が削減されたのである。p.69

 企業の利益追求と公的な利益の対立。

 ナショナルシティラインズ社を用いた戦略は米国における都市輸送および都市生活の質に対して破滅的なインパクトをおよぼした。どこにもロサンゼルス大都市圏ほど明らかな「廃墟」となったところはない。三十五年前には、それは、青々と茂ったヤシの木、芳香を放つオレンジの果樹園、海の香をふくんだきれいな空気といったものがある美しい地域だった。
 当時はそこには世界最大の都市間交通体系が機能していた。パシフィック電車交通体系は、ロサンゼルスから分岐して半径七五マイル以上の地域に広がっており、北はサンフェルナンドまで、東はサンベルナルディーノまで、南はサンタアナまで達していた。この鉄道の3000本の静かで汚染のない電車は、56の別々に発達した都市が広がっているあたり全体に、年間8000万人を輸送していた。一般に信じられていることとは反対に、自動車ではなく、パシフィック電気鉄道こそが、この地域の地理的発展を促したのである。それは1911年に建設されたのであるが、自動車がやってくるずっと前に、郊外生活の伝統を確立したのである。
 1938年に、GMとカリフォルニアのスタンダード石油は、西海岸の電車交通体系を「自動車化」するために、NCLの子会社として、パシフィックシティラインズ(PCL)を設立した。翌年、PCLは、フレスノ、サンホセストックトンという北カリフォルニアの三つの電気交通体系を買収し、スクラップ化し、バス路線に転換したのである。
 1940年に、GM、スタンダード石油、ファイアストーンは、「カリフォルニアでの営業をもっと直接的に監督するために、パシフィック(シティラインズ)社の経営の実権を掌握した。その年に、PCLは、ロサンゼルスからグレンデール、バーバンク、パサデナ、サンベルナルディーノへの鉄道路線を含むパシフィック電気鉄道体系の1億ドル相当の部分を買収し、スクラップ化し始めていた。
 その後、1944年12月には、ロサンゼルスの下町を「自動車化」するためにGMとスタンダード石油によってもう一つのNCL子会社(アメリカンシティラインズ)は設立された。その当時、パシフィック電気鉄道社は、ロサンゼルスの下町の鉄道線路を、ローカルな市街電車の会社であるロサンゼルス・レールウェイ社と共有していた。アメリカンシティラインズはこのローカルな交通体系を買収し、その電車をスクラップ化して、その架線をひきずりおろし、軌道をひきはがして、スタンダード石油社の燃料で走るGMディーゼルバスをロサンゼルスの混雑した道路の上においたのである。
 要するに、GMと自動車業界におけるその同盟者たちは、ロサンゼルスの地域的な鉄道交通体系を寸断し、それから下町の心臓部を「自動車化」したのである。
 モータリゼーションは、カリフォルニア南部における生活の質を劇的に変えてしまった。今日では、ロサンゼルスは生態学的には荒廃地域である。ヤシの木は石油化学製品によって生ずるスモッグのために枯死しつつある。オレンジの果樹園を切り開いて全長300マイル(483km)のフリーウェー(無料高速道路)がつくられた。空気は、GMがその半分をつくった400万台の自動車から排出される1日1万3000トンの汚染物質の「浄化槽」にされてしまった。効率的なパシフィック電気鉄道の鉄道交通体系を破壊されることによって、ロサンゼルスは高速の鉄道輸送をもち、スモッグのない大都市を実現させる最大の希望の源泉を失ってしまったのかもしれない。p72-6

 鉄道交通から高速道路交通への転換は、消費者にさらに第三のコストを課してきた。つまり、都市部の土地面積の60-65%を占める広大な課税しうる土地が、高速道路、駐車場、その他の自動車およびトラック関連用途にあてられてきたのである。ロサンゼルスの下町ではこの数字は85%近くにまでなっている。これは都市の税収の基盤を減少させ、その上付随的に、不可欠な公共サービスの提供に充当できる資金の減少を招いたのである。これとは対照的に電気鉄道交通は、同じ量の旅客あるいは貨物を移動させるのに要する面積が高速道路交通の13分の1以下ですみ、また多くの場合は地下に建設することができるのである。p.107-8

 いかに都市と自動車の相性が悪いか。つーか、中心部で85%も自動車関連に土地取られるのか。高度利用の敵だな。

 もちろん、あらゆる産業部門は、政府機関に対して請願を行い、自らの私的利益を増進させるような政策形成を促す手段として世論を動員するということに関しては、憲法で保障された権利を有している。本研究はこの特権に例外を認めるように主張するものではない。しかしながら、重要な複数の産業部門からなる陸上交通の分野において相対的に巨大で高度に集中化された自動車産業が存在することは、自動車産業に有利なように、そして利用者大衆には不利なように政治過程をゆがめるという結果をもたらしたのではないかと示唆するものである。p.96-7

 確実にあるだろうな。

 外部の供給者からの購入と外部の販売者を通じての販売を重視することは、二つの競争的で有益な効果を生み出した。つまり、市場参入の容易さと技術的な柔軟性である。
 初期の自動車産業において、垂直的な統合がないことは、市場への参入と事業活動の継続に必要な初期投資の額を大幅に減少させた。フォードモーターズの参入は典型的である。同社は1903年にわずか2万8000ドルで設立(1973年の価値に直すと、おおよそ13万9000ドル)された。この市場参入の容易さは、当時の産業の非集中状態を反映している。たとえば、1921年には乗用車の販売台数150万台の市場に88の組立て企業が競合していた。比較として、1972年の販売台数は900万台、つまり6倍である。この非常に膨れ上がった産業を1921年当時の半分の製造業者の数にして再編成することは、理にかなっていないものではない。
 垂直的統合がないことはまた、初期の製造業者に高度な技術的柔軟性を与えた。自動車部品の製造に対する、多額の投資がなかったことは、外部の車体およびエンジン製造業者が提供するさまざまな技術を自由に実験することができたということであった。結果として、初期の自動車産業は、基本的に異なった自動車の広範な品揃えで知られている。たとえば、ガソリンエンジンの車だけでなく、電気自動車や蒸気自動車もあった。p.133

 うーん、どうなんだろう。フォードの互換性部品による大量生産以前と以降では、全然産業の様相が違うのだが。そこは考えているのだろうか。大量生産にはかなりの部品の内製化は必要だろう。あと、本書では電気自動車や蒸気自動車を代替エンジンとして言及しているけど、当時の技術的可能性としてどうだったのか。さすがに蒸気自動車は無理だろう。電気自動車にしても、エネルギー補充システムのインフラという問題はまだ解決していないし。

 経済学の研究および業界における実際の組立て施設の状況は、これとは相反するものである。たとえば、ベインは、年間6万-18万台の範囲の生産において、製造業者は効率の最大化を達成するとの結論を出している。英国の自動車産業の研究の中で、マクシーとシルバートソンは、組立て生産における規模の効率性(スケールメリット)は、10万台のレベルが限界であるとした――ライズは、20万台であると主張しているが。ドイツの自動車産業を考察して、ヨルゲッセンとベルクは、組立て作業の最大の効率性は2万5000-5万台の生産レベルにおいて達成できると主張した。重要なことは、これらの効率的生産台数のレベルは、1972年の米国の組立て工場の平均生産台数20万台を下回るものであることだ。p.139

→G・マクシー、A・シルバートソン『自動車工業論:イギリス自動車工業を中心とする経済学的研究』東洋経済新報社、1965
 実際のところ、どうなんだろうな。

 ヨーロッパと日本のトラック・メーカーはまた、外部の部品供給者および独立した販売業者に、より多く依存している。この、より競争的な構造は、企業の市場成果のうらやましいほどの記録を生み出している。たとえば、日本は、軽トラックを初めて開発した。いすゞ東洋工業は、GMの“LUV”やフォードの“クーリエ”をそれぞれ生産している。一方、ドイツのダイムラー・ベンツ、メッサーシュミットおよびフォルクスワーゲンは、電気トラックとバンを製造してきた。これら、低集中、低統合の産業の効率性は、われわれが提起した米国のトラック製造業の再編成の実行可能性を一般的な形で例証しているのである。p.147

 この場合、市場の状況、飽和しているかいないかも重要だと思うけど。あと、この本の「軽トラック」って、軽トラのことではなくて、ピックアップトラックのことだよね。どうも、このあたりの「トラックメーカー」あたりからして、語感の違いはありそうだな。


 あと、増補版の解説のサンフランシスコやポートサイドの自動車抑制の試みが興味深い。そういう都市づくりはアメリカでもあったんだな。ロサンゼルスも、自動車化からの脱却を目指して鉄道の再建を図っているそうだが。