亀田忠男『自動車王国前史:綿と木と自動車』

自動車王国前史 綿と木と自動車

自動車王国前史 綿と木と自動車

 「いろいろクドイ話」の「立ち上がれないフランス航空機工業」で、「量生産の概念とその手法は繊維工業や化学工業などで先行している」という一節があったので、ふと気になって借りたもの。あそこでの文脈では繊維製品の量産と規格化なのか、それを生産するための機械も規格化が進んでいたのかが判然としないのだが。
 トヨタが自動車の大量生産に成功し、中部地方が自動車生産の中心になるに至るまでの試行錯誤の歴史を描く。1930年代の自動車生産の難しさって、単純に自動車を作れればいいのではなく、大量生産で高品質の車両を十分な量、廉価で供給できなければならないってことなんだよな。そのような大量生産を組織するには、相当な設備投資が必要というのがネックだったと。そもそも、材料から、部品から、要求される性能や精度が段違いだったという。
 第一部は、大岩勇夫名古屋市長の旗振りによる名古屋デトロイト構想と、それに応じて企画された高級自動車アツタ号の顛末。50台ほど生産されたというから、それはそれでそれなりの成果といえるだろうけど、アメリカ製の高級乗用車に価格で全然太刀打ちできなかったというあたりが、自動車産業の敷居の高さをあらわしているなあとしか。日本車両、大隈鉄工所、愛知時計電機岡本製作所の四社による分担製作。事業化を考えるなら、むしろオート三輪生産から自動車に進んだ方が良かったんじゃなかろうか。結局、岡本自転車自動車製作所は自動車メーカーには脱皮できなかったのだし。本書ではオート三輪を馬鹿にしている感じだが。
 第二部は、中部地方の在来産業である窯業や鋳物、木工、織物という産業に関連した企業が、自動車部品の生産にかかわっているかを描いている。鋳型の材料となる野間砂に恵まれ、古くから鋳物の伝統があったこと。森村組が企業化した点火プラグの窯業。木曾の木材の供給から木工が発展し、鉄道のボディーを生産する日本車両や、木製の箱に時計を組み込んだ置時計から発展した愛知時計電機など、自動車や航空機生産の発展に関わっていること。自動織機メーカーから発展したトヨタ。後半は風土との関連というよりは、豊田佐吉が企業を安定してもち、そこから豊田喜一郎の乗用車生産への挑戦へと続く流れを描く。豊田佐吉って人は、あくまで「発明家」であって、量産工程の整備なんかには無頓着だったようだ。
 第三部はトヨタが乗用車の量産に至るまでの道のり。戦争をはさんで20年近くかかっているのな。機械を買って、工場を建設する設備投資の膨大さと、その資金を捻出することの大変さ。材料や各部品の精度など、あらゆる面で自動車を生産するには、日本の機械産業が未熟だった状況。軍の指定を受けるために、無理やり作った実績作りのトラックなどなど。あと、豊田喜一郎にほれ込んだ企業家たちが、自動車部品生産を粘り強く行い、トヨタ本体とウェットな人間関係を形成していた状況とか。比較的最近までのトヨタの、なんというかウェットな体質の起源なんかもうかがわせる。
 いろいろと現在につながる企業が出てきて、名前だけでも楽しめる。索引があればもっと便利だったかも。まあ、最初の問題意識にはつながらなかったわけだが。あと、トヨタも軍用機用の発動機を生産しているんだよな。そのあたりの軍とのかかわりとか、事業の広げ方については、あまり言及していない。
 あと、最近新聞に連載されたものだそうだが、本分はなんか1970年代から80年代あたりに書かれたような雰囲気があるのだが。少なくとも、21世紀に入ってからのものではないよなあ。


 以下、メモ:

 そこでアメリカから自動車を緊急輸入することになり、後藤新平は、市電に代わって輸送用として、バス一千台を購入した。勿論これ以前からもトラックやバスの輸入はあったが、この大量投入が自動車利用を日常化させた。「自動車は機動力があって便利だ」というモータリゼーションのきっかけとなった。p.45-6

 他の文献でも、日本のモータリゼーションの端緒になったと指摘する出来事。一千台の輸入ってのは、鉄道の建設に匹敵する大規模投資だよな。官需による、大規模な投資が、モータリゼーションを軌道に乗せたと言ってもいいのではなかろうか。同時に整備や部品供給のインフラも準備されたと思われるが、むしろそっちの方が大事かも。これ以前には、バスなどの事業化は、整備や予備部品の供給が制約になって成功しなかったわけで。

 「気違い達」には、こうしてたたき上げた職人連中が多い。
 株式会社大隈鉄工所(現オークマ)の創業者大隈栄一は、「うどん」の機械を造るために、明治三十一年、九州の佐賀から名古屋へわざわざ移り住んでいる。
 佐賀でうどん屋の養子となった栄一は。製麺機にとりつかれて何とか特許をとる。名古屋はきしめんの本場であり、大きな製粉工場があるから、うどん機械を名古屋で造れば一発勝負が狙える。佐賀を離れた栄一の動機はこれである。
 今日、オークマは世界的な最有力工作機械メーカーである。しかし栄一が会社経営を始めて今日に至るまでには、製麺機をはじめタバコ機械、弾薬装填機、毛織機、漁網機など「機械でいこう」とする職人栄一もずい分回り道した。有名工作機メーカーも過去には試行錯誤を繰り返した深い跡がある。
 自転車は戦前、東京の宮田、名古屋の岡本で天下を二分した。
 その頃の日本の都市は、今の中国のように、大通りは自転車の大洪水で、庶民の大切な足となっている。自転車は花形商品であった。
 岡本松造は奈良で小学校を終えると、名古屋の鍛冶屋の小僧となる。未だ自転車は輸入の高級品で、その修理、部品製作は割のいい儲け仕事だった。松造は早速に独立して自転車の修理を自衛する。明治三十二年、二十三歳である。
 大正八年に株式会社岡本自転車自動車製作所を設立して、自転車の量産を開始する。工場敷地二万三千坪(七十六万平方メートル)の大面積。この頃はフォードがT型自動車を量産中である。松造は師としている国松豊(名古屋高商、名大経済学部の経営学者)にこう言っている。
「国松先生、この敷地は自転車を造るには広すぎる。早晩自転車だけではやっていけない時代が来る。私はこれから、自ら動く車をやろうと思っています。オートバイでも飛行機部品でも、自動車でも」
 偶然にも洋の東西で。松造はわが国で始めて自転車の量産、フォードはアメリカでT型自動車の量産を同じ時期にやっている。松造が社名とした「岡本自転車自動車製作所」は、今日でいう自動車の意味ではないにしても、職人にしては二味も三味も違うスケールを松造は持っていた。
 大隈栄一や岡本松造のほかに職人一匹の腕を生かして「機械」をものにした気違いはまだまだいる。
 エルモの榊秀信はタンスの金具職人から、趣味のカメラいじりを生かして、昭和六年頃から8ミリ映写機のブームを作りあげる。
 安井兄弟は昭和九年に日本ミシン製造(現ブラザー工業)を設立して、アメリカ製のシンガーミシンに挑戦する。p.78-80

 大隈以外は比較的軽いものを生産していたのが特徴かな。量産の始まりとして比較的敷居が低いところではある。そして中国などの新興国にほぼもってかれた分野でもある。
関連:Vol.7:麺機よもやま話
 工作機械メーカーは大概、他の製造機械メーカーから発展していると。

「市長、たしかにこの昭和五年は不景気の絶頂です。ですからこそ自動車を狙って、勝負に出ようということでありましょう。一つは、アメリカが馬鹿らしくて手をつけないもの。オート三輪ですな。アメリカから小型エンジンを買って簡単に組立てれば出来上がりといった代物です。不景気時代の穴場狙いですかな。大八車や馬車よりうんと能率が上がるんで、金をはたいて運搬屋が転換してくれます。まあ自動車という代物ではありませんが、東西からメーカーが沢山乗りでてきました。名古屋でもナカノモーター株式会社が、市内方々の鉄工所に部品製作を頼んで組み立ております。ジャイアント号と言いましてな。私しんところはオートバイを造っています。中途半端なことはしたくありません」p.91

「市長、うちも早くそうなりたいもんです。もっともオート三輪くらいだったら、直ぐにでも造ってご覧にかけます。本格的な自動車となると、そうは参りません。そこで数社が共同して、不景気の打開をかねて、やってみようやないか、という事でありますんで、ご相談に上がった訳でございますよ」p.92

 むしろ昭和初年の日本の交通生態系からすると、自動車よりも、オート三輪のニッチの方が大きくて、安全性も高かったんじゃないかね。オート三輪のトップメーカーは、オート三輪から四輪自動車のメーカーに脱皮できているわけだし。
 そんなに馬鹿にしたものではないと思うのだが。

「今、西尾の組合で中国のコークスと中国銑を輸入し、コストダウンに努めています。中国銑はこれまで一万トンほど買付けました。生活と産業は一体ですから、生活と産業の姿が変化してくれば、当然に鋳物の種類も違ってきます。私のところも、これまで農機具、農業用トラクター、ミシン、脱穀機歯車とやってきて、今ではほとんどが自動車部品。組合員の方々も似たような傾向です。自動造形ラインを入れて、量産につなげています。ご承知のように最近は、普通鋳鉄より三倍も強いダクタイル鋳物が完全に信頼され、自動車部品にも至るところに使われています」p.134

 メモ。自動造形ラインにダクタイル鋳物な。

 徳川家康以来のゆかりとでもいうか、木曽五木については名古屋の流通力は全国抜群になっている。ヒノキ、サワラ、コウヤマキアスナロ、ネツゴの五木について、名古屋の値決めが全国をまかり通っている。もちろん集荷量は全国一である。p.151

 これって、木曽の木が集まっているのか、この五種に関してはほかの産地も含めて名古屋の価格決定力が強いのかよくわからんな。

 一方、経営者側もたかだか五万円くらいの僅かな資本金で、近代産業の端くれに参加でき、利幅は薄いが確実に儲かる。名古屋商法の典型がボンボン時計であった。
 ボンボン時計は次第に国内の消費と、中国市場向けの輸出が増え、メーカー乱立と相まって粗製乱造の悪評を買う。
 需要が増えて量産したので、腕のにぶい職人、悪い素材、未経験な下請に頼るようになる。
 いわば「量産体制の未成熟」の問題が表面化してきた。大正末期に発表された時計工業調査のパンフレットは次のように述べている。この指摘は一見平凡に思えるけれども、初めて名古屋の産業が当面した「下請構造問題」として意義深い。
「時計工場では、時計機械のムーブメントだけが生産され、他の部分品であるゼンマイ、パイプ、振子。それから外面と付属品である文字盤、外箱、金具、といったもののすべてを下請分業で調達するようになってきている。即ち、時計産業が有利な企業ということで乱立した結果、肝心なものを作ろうとしないで(内製化)、商業資本的な企業(マニュファクツール)になってきている」p.173

 戦前の名古屋の置時計産業。まあ、時計とか、ミシンとか、自転車とか、こういう下請けから部品を買い集めて、組み立てる軽機械工業って多かったんだな。この種のアッセンブル産業は増産すると品質が下がるって欠点があるんだよな。18-9世紀あたりのイギリスのマスケット銃の事例が、『大英帝国の〈死の商人〉』asin:4062581108で紹介されているが。