「尖閣は「共有の道しるべ」:船乗りから見た島々の歴史探る」『朝日新聞』14/1/29

 尖閣諸島の領有権問題が起こるはるか昔、船乗りにとって島々はどんな存在だったのか−。世界の科学技術史に詳しい京都大学名誉教授で龍谷大学客員教授の山田慶兒さん(81)が、『海路としての〈尖閣諸島〉 航海技術史上の洋上風景』で尖閣諸島の歴史的風景を伝えている。
 山田さんは、中国の医学や暦学、博物学などの研究で知られる。執筆のきっかけは、中国・明の提督、鄭和の航海技術への関心から。鄭和は1405年、大船団を率いて東南アジアを経てインド、東アフリカの沿岸諸国を歴訪した。鄭和は計7回の大航海を果たしたが、その航海に参加したと思われる船乗りが書き残した航海指針書の筆写本が英・オックスフォード大の図書館に残る。「この航海指針書に文献上初めて、後に尖閣諸島と呼ばれる島々の記録がある」 当時使節たちが行き交っていた中国南部・福建−琉球航路の記述の中で、「釣魚嶼(魚釣島)」など三つの島が登場。福建側のどの港から出帆しても魚釣島を経由していることも分かる。
 清時代の航海指針書もこの三つの島に言及しており、山田さんは「当時の船乗りにとって島は航海の目印だったが、中でも尖閣請島が特別な位置を占めていたことが分かる」という。
 中国と琉球の船乗りたちは海上で共通の危険に接するため、お互いの航海指針書を共有していたという。
 山田さんは「昔の船乗りの意識には国境のような壁はなく、航海指針書は共有の知的財産で、尖閣諸島などの島々も航海中の道しるべとなる共有財産だった。その歴史を知って欲しい。英知と男気を持てば道は開けるはず」と話している。
 直接販売のみ。2625円(送料・税込み)。郵便振替で00910・1・93863編集グループ〈SURE〉へ。電話は075・761・2391。(河野通高)

 メモ。かつての船乗りの共通世界とは異なる論理で動くようになっているからなあ。男気で打開できるとは思えないのが。