長谷川亮一『地図から消えた島々:幻の日本領と南洋探検家たち』

地図から消えた島々: 幻の日本領と南洋探検家たち (歴史文化ライブラリー)

地図から消えた島々: 幻の日本領と南洋探検家たち (歴史文化ライブラリー)

 発見の報告が有ったが、その後、確認できない「疑存島」。現在の日本の領域にある代表的な疑存島、ロス・ジャルディン島、アブレオジョス島、イキマ島、グランパス島、中ノ鳥島を取り上げている。利用価値のない島として無視されていた島が、後にグアノやアホウドリの羽根などの利用価値が見出され、競って確保されていく過程が興味深い。そして、そうやって様々な島の開発を競い合った人々のうち、後に残るような富を築けたのは、大東諸島、南北大東島で砂糖プランテーションを運営した製糖会社、沖大東島リン鉱石を採掘したラサ工業くらいなんだよな。大体、同じような人物がすったもんだしていたわけだが。
 これらの島々は、最初、マニラ・ガレオン船の運航にともなって「発見」されたが、スペイン人はこれらの島々に利用価値を見出さず、適当に放置されていた。また、18世紀までは経度の測定が難しく、太平洋に疑存島を増殖させる結果になった。その後、北太平洋における毛皮交易でヨーロッパの船舶が往来するようになり、様々な島が発見、再発見されるようになる。19世紀にはいると、諸島には捕鯨の基地として、半ばになるとグアノとリン鉱石という資源が発見され、俄かに太平洋の島嶼が争奪戦の対象になる。また、アホウドリの羽も輸出品として重要な意味を持った。
 イキマ島のエピソードもおもしろい。資料の誤記が、引き継がれて、探索されるようになった。宮古島の比較的近海に幻の島があると、長年捜し求められるという。
 後半は、日本人の南洋進出とそれにともなう島嶼の争奪戦。富を求めて現在の日本領の島々から、更に南シナ海南沙諸島ミッドウェイ島にまで進出していく日本人。ミッドウェイ島で鳥の密猟を行う日本人が見られたこと。海底ケーブルの基地としてのミッドウェイの重要性が増した結果、禁猟区に指定され、それが今に至ると。島嶼の経済的意味の変遷。今では、更に、200海里経済水域の基点として、島嶼の重要性は増している。
 中ノ鳥島のエピソードがおもしろい。中ノ鳥島の探検報告とそのまことしやかな報告書の提出、それにともなって日本領としての編入。しかし、その背後には、怪しげな人脈と詐欺が疑われる状況が指摘される。その後も、開発が企てられ、探検が繰り返されるが、結局は見つからず、存在しないことが確定した。それでも、1970年代まで、日本領として表示されていたというのがおもしろい。
 太平洋の絶海の孤島がどのように見られるようになっていったか。その変遷が非常におもしろい本だった。


 以下、メモ:

 いっぽう、いったい何が原因なのかはっきりしない混乱もある。ロス・ジャルディン諸島が、マリアナ諸島の東方、北緯二一度付近に北上しているのである。この間違いは一八世紀前半のスペイン製海図において発生し、アンソン海図にも引き継がれたものらしい。
 当時のスペイン側の基本的な関心はマニラ・ガレオンの維持にあり、したがって、それと直接関係しない島々についての関心は薄かった。彼らはハワイ諸島の存在にすら気付いていなかったのである。アンソン海図に見られる混乱は、こうした関心の低さを反映しているともいえよう。p.66

 このあたりの、スペインの帝国主義の関心の偏りはおもしろいな。基本的に一攫千金にしか関心がないというか。

 このころ、横浜とカロリン諸島の間をスクーナー型帆船で往復していたウィリアムというイギリス商人がおり、雑貨とコプラ油との取引で利益をあげていた。服部は小笠原でウィリアムと知り合い、カロリン貿易に着目したらしい(西垣次郎+森川五三郎『最近探検南洋事情』大沢屋書店、一八九九年、樋口和佳子「南洋貿易の「系譜」」『岩波講座東南アジア史7 月報7』岩波書店、二〇〇二年)。水谷らはカロリン諸島のポナペ島(ボーンベイ島)やトラック諸島(チューク諸島)などで交易を行い、タイマイ・ナマコ・鱶鰭・真珠・椰子などを得て、一八八九年一〇月に帰国した(『時事新報』一〇月二七日)。もっとも、同年一二月に密告を受け、不開港場規則および商船規則違反の容疑で処罰を受けたという(『郵便報知新聞』一八九〇年五月八日)。なお、水谷本人の後年の回想などによれば、初航海は前年の一八八八年らしいのだが、いずれにせよ、日本商人としては最も早いミクロネシア進出だったといわれている。p.117

 水谷が得てきたものが、中国との取引に使われるものが多いのが興味深いな。ナマコにフカヒレと。そして、これらの流通ルートに乗って東南アジアに進出した漁民との関係も。