渡辺洋二『遥かなる俊翼:日本軍用機空戦戦記』

遥かなる俊翼―日本軍用機空戦記録 (文春文庫)

遥かなる俊翼―日本軍用機空戦記録 (文春文庫)

 文春文庫から出た一連の著作の一冊。この本では、特にテーマを定めず、旧稿を集めたようだ。昭和19年ごろのニューギニアソロモン諸島での航空戦を扱った記事が二本、水上機についての記事が二本、あとは戦闘機に関して。しかし、太平洋戦争末期の航空戦には、どうしても、特攻の影がちらついて、なんともいえない気分になる。


 ニューギニアソロモン諸島を扱ったのは、昭和18年後半から19年初頭にかけてのニューギニア陸軍航空隊を対象とする「ニューギニアを支えた男」と、同じく昭和19年1月17日のラバウルでの完勝劇を描いた「ラバウル上空の完全勝利」の二本。
 けっこう後々まで、この地域でも航空戦力が維持されていたのだな。ニューギニアの戦闘機戦力の空中指揮を行った南郷茂夫中佐の話。18年夏だと、互いに航空撃滅戦を戦う状況だったのか。航空戦力が生きているうちは、なんとか、戦えていた。「ニューギニアは南郷でもつ」ってのも、すごい話だな。そして、南郷中佐の戦死後、急速に崩壊に向う。
 後者は、ラバウル零戦隊の話。ソロモン諸島の航空戦の敗勢が濃くなり、ラバウルの基地群が攻撃を受けるようになっても、トラック島からの補給を受けて、100機近い零戦を迎撃に出すことができていた。ラバウルの航空戦の簡単な通史になっていて、興味深い。19年初頭だと、もはや攻撃に出る戦力はなくなっていたが、連合軍の北上を抑える橋頭堡になっていたということか。2月17日のトラック島空襲で、基地機能が壊滅して、ソロモン諸島での航空戦を諦めるまで、戦い続けた。
 1月17日の完勝劇はすごいけど、結局、連合軍側が目論んだ艦船攻撃は阻止できず、2万トンの船が沈められているあたりで、問題ありだとは思うが。
 しかし、100機近く、連合軍側を上回る航空戦力を投入できたのは、渡辺洋二氏のほかの著作では見かけなくて、印象的。ここらあたりが最後なのかな。


 水上機関係の記事が「本土に空なし」、「去りゆく水戦」の二本。前者は、大戦末期の水上機の訓練部隊の話。後者は、水上戦闘機「強風」の話。本土が空襲に晒される時期には、フロートがついて、スピードが遅くなる水上機には、ほとんど出る幕がなかった。あとは、パイロット大量育成開始の遅さ。昭和18年からスタートじゃ、そりゃ、間に合わないよなあ。
 もう、訓練用の燃料もまわしてもらえない予備学生の状況。訓練中の学生を特攻に投入させる決定など。
 「強風」は、最後は、ロケット弾による夜間攻撃に使われる予定だったのか。


 海軍の偵察機「彩雲」を扱った「偵察機は木更津を発つ」も興味深い。偵察機部隊の「作戦」を表現するのは、大変そう。
 敵地に進出し、写真を撮って帰ってくるのは、危険度が高いなあ。自分で戦える戦闘機より、きつそう。実際に、彩雲を持ってしても、次々と消耗していく。単機行動が基本だから、行方不明のパターンが多い。関東から、硫黄島経由で、サイパンやグアムの偵察行。
 さらに、昭和東南海地震の被害で、彩雲の供給が低下した後は、戦闘機部隊で持て余していた紫電を、戦闘偵察機として利用。偵察距離が短くなった大戦末期には、航続距離よりも、自衛能力が大事だった、と。

 沖縄決戦の主兵は航空特攻である。当初は第三、第五航空艦隊の通常攻撃と実用機特攻を合わせて海軍は一二〇〇機の用意が限度だったが、二月四日の軍令部関係者の研究会によってこれが一変する。
 軍令部第一課長・田口太郎をはじめ、寺崎隆治、松浦五郎、大前敏一、寺井義守といった大佐、中佐らは、口々に特攻の大量投入と練習機の特攻機化を言いたて、「行けばたいてい命中する」「練習生に練習機で特攻させる研究が必要」とまで述べた。立場上、彼らは軍の最後方に位置し、特攻戦死する(あるいはさせられる)可能性はゼロだ。
 彼ら軍令部の面々の発言内容は、杜撰かつ低劣をきわめる。こんなものが起死回生として扱われるのも、敗色濃い軍国ならではの現象だ。有為の若人の愛国心に乗じ、あるいは拒否しがたい状態に置いて特攻に応じさせ、大勢を死地に送りこんだ以上、敗戦後に責を追うのが必然なのに、一億総懺悔のムードのなかで遁れきり、裁かれもせず、非道の自覚もなく、恩給/年金付きの余生を全うしてしまう。p.47-8

 あとで、調べよう。
 最近、海軍のイメージが地に堕ちている。亡国の軍上層が、生き残って、自衛隊の幹部なんかに横滑りしているのがなあ。

 単機格闘戦を軸に戦ってきた陸軍戦闘機隊が、どいつ空軍が創始し英米が追随した二機二機の四機編隊空戦を取り入れたのが、昭和十八年なかば。以後、この四機によるロッテ戦法が主戦法になるが、米軍のレベルにはどうしても及ばなかった。編隊空戦に不可欠の無線電話の不備、機数の不足、一撃離脱に向かない飛行性能、チームワークに徹しきれない日本人の性格などが壁になったからだ。質、量ともに劣るのに、相手と同じ手を使ったのでは、不利は明白である。p.339-340

 昔は、日本人は集団主義なんていっていたけど、実は、全然そうじゃなかったという…