『歴史群像』2019/2号

歴史群像 2019年 02 月号 [雑誌]

歴史群像 2019年 02 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2019/01/05
  • メディア: 雑誌
 バックナンバーに手を着けたけど、これ一冊で停滞中。

古峰文三「海軍三〇二空 決戦録」

 厚木は、海軍の関東における一大航空拠点だった。用地買収が1941年で、概成が1943年か。本土東方の侵攻機動部隊邀撃、防空、搭乗員の錬成の任務を兼ねる部隊だった。
 基本は局地戦闘機である雷電夜間戦闘機である月光を装備する部隊だったが、それらの供給が間に合わない状況で、不足する雷電の穴埋めの零戦、月光の穴埋め兼空母邀撃の銀河・極光、偵察機兼夜戦の彗星や偵察機の彩雲、輸送機や練習機が配備された。
 しかし、指令の小園安名の斜め銃マニアぶりとか、「厚木航空隊の反乱」におけるぶっ倒れていた状況とか。
 1944年後半から1945年1月にかけては、サイパンから出撃するB-29との戦い。太平洋方面で監視ができないため、後手に回った序盤。11/24の戦闘では、104機上がったのに、会敵に失敗。さらに、三菱重工名古屋発動機製作所を爆撃で破壊される。しかし、戦訓をもとに、組織的な哨戒網や地上管制の整備で、徐々に戦果が上がるようになってきた。
 しかし、45年2月に入ると、艦載機による攻撃、P-51の援護などが行われるようになり、迎撃が難しくなっていく。しかし、その中でも、月光・銀河や若年操縦者の空中待避などの対策で、末期まで戦力を維持した。
 沖縄作戦支援のために、雷電部隊を抽出した話も興味深い。指揮官が第五航空艦隊情報室に詰め、そこから各基地の指揮所に三系統の方法ルートが整備。そこから、雷電各機を指揮するという、地上管制システムが整備されていた。迎撃には地上管制が重要なのだな。

桐野作人「島津氏と関ヶ原合戦

 関ヶ原前後の島津家の動向。当主義久と後継者候補の忠恒との微妙な関係。関ヶ原では、去就が定まらなかったが、最終的に西軍に加担。兵力不足に悩む義弘。そして、関ヶ原における「島津の退き口」。帰還目前の海戦、そして、関ヶ原後のにらみ合い。
 島津家に好意的な大名がたくさん居るのが興味深い。改易を避けるべく仲裁の労を取る。
 義久の娘亀寿が、後継に重要な役割を果たしていたというのも興味深い。

田村尚也ソ連軍から見た『独ソ開戦』に至る道」

 第一次世界大戦後の内戦の経験から機動戦が重視され、国外から6t戦車やクリスティー戦車のライセンスを導入。これらで大規模な戦車部隊を組織する。しかし、大粛正とスペイン内戦で戦車が簡単に撃破されたことが、機械化部隊の逆風となる。
 しかし、第二次世界大戦の直前には、機動戦ドクトリンが復活し、整備中に戦争が始まる。
 しかし、ソ連軍の砲兵重視と戦車の関係が語られていないような気がする…

手塚正己「駆逐艦『柳』津軽海峡の死闘」

 1945年1月に竣工した松型駆逐艦の一隻。乗り組みの士官は歴戦だけど、それだけに撃沈経験のある人ばかりだったという。
 沖縄特攻に参加する予定だったが、松型は外されて九死に一生を得る。その後、津軽防備隊に編入され、津軽海峡の哨戒に従事。
 7月10日の空襲では、第三青函丸の撃沈後、自らも攻撃対象に。猛攻を受け、艦尾に一発命中。大破。その後、大湊に曳航されるが、修理ができず放置状態に。その後、8月19日の大湊空襲では、動けないまま攻撃にさらされるが、至近弾で切り抜ける。しかし、もはや修理のしようもない柳は、再利用できそうな装備を取り外して、廃艦状態に。その状況で終戦を迎える。
 終戦間際になると、アメリカ兵も無理な行動で損害を受けるようなことはしなくなっているのか。余裕だな。そのおかげで、柳はギリギリ生き残ったわけだが。

山崎雅弘「二つのイタリア第二次大戦」

 連合軍に降伏したバドリオ政権とドイツの傀儡状態だったムッソリーニイタリア社会共和国に分裂したイタリア。ドイツ側のENRはそれなりの規模の部隊が編成。一方、バドリオ政権側も、軍が再建され、戦闘に投入。しかし、陸軍は戦闘団単位で他の部隊に編入されるとか、海空軍は国外でのみ任務に就くようにされたというのが、もう、連合軍の不信感を如実に現しているな。
 反ファシストパルチザンの組織では、共産党が有力であった。その結果として、共産党の影響力が冷戦期になっても維持された。血なまぐさい共産党狩りが行われなかったあたりが、曲がりなりにもヨーロッパの国って感じだな。
 イタリア降伏時のバドリオ政権の振る舞いはさすがに、グダグダ過ぎるなあ。結果として、北イタリアでは完全に権威が失墜していたという。

長南政義「作戦分析 植木・荻迫・木留の戦い」

 田原坂の戦いに続いて行われた攻防戦の紹介。
 田原坂から撤退した薩軍は、数キロ南の半高山・木留・荻迫・向坂の線で防衛線を再構築する。そこから、攻勢を重ねても、堅陣を突破できない陣地線が展開する。
 せっかく南に衝背軍が存在するんだから、北戦線は牽制攻撃で拘束して、南から攻勢かけて挟み撃ちにすればいいと思うが、そういう作戦ができなかったのが当時の軍隊、と。統一的な指揮系統が存在せず、北の山県と南の黒田の2人の参軍の間で主導権争いが発生してしまった、と。また、戦闘の過程で、「司令官職務規程」といった指揮系統の整備が行われ、戦いの過程で近代的な軍隊式が学習されていった。
 しかし、小さな谷を挟んで、本当に近距離で死闘が演じられたのだな。
 最終的に、城北戦線の薩軍は、突破を阻止するという任務を果たし、熊本平野東部に撤退する薩軍しんがりとなり、自身も安全に撤退に成功している。政府軍の不手際が目立つ感じだなあ。

齋藤義朗「壱岐要塞の全貌」

 玄界灘の要塞群のうち、壱岐から生月島の施設跡を紹介。
 40センチ級の砲塔を配置するには、かなり巨大な設備が必要なんだな。まあ、重量からしてねえ。弾庫や砲塔を動かす動力装置などが建設された。
 ここまで巨大な砲塔は、結局、使い勝手が悪く、見るべき戦果がなかった。むしろ、15センチカノン砲のほうが、使い勝手が良かった感じだな。

古峰文三「日の丸の轍:File.03:九五式軽戦車」

 騎兵部隊の装甲車の系譜を継ぐ機動戦車。戦争に伴って2300両という九七式をしのぐ量が生産された。しかし、対戦序盤こそ機動戦車としての活躍できたが、その後の陣地戦では弱装甲弱武装の軽戦車には活躍の余地はなかった。
 最後の花道は、戦後。小型軽量のため、取り回しがよく、信頼性も高い九五式軽戦車は、建機に改造されて活躍した。

中井均「戦国の城:近江 佐和山城

 織田・浅井の境目の城から、信長の上洛の中継宿泊地、秀吉時代の対信雄・家康の境目の城、そして、最後は石田三成の居城に。

白石光「蒼空の記憶:ポリカルポフ I-16」

 低翼単葉戦闘機として、一番早くでてきた機体だけに、後々苦労する、と。これ、胴体は合板製なのか。
 この手の太くて短い飛行機は、大概操縦性に難ありだなあ。

有坂純「縦横無尽!世界戦史:高出力レーザー兵器(第二回)」

 なんか、いろいろと技術的障壁がある、と。高エネルギーに曝される主鏡の精度をどう維持するか、射撃指揮装置、そして、根本的に衛星装備のレーザー兵器は脆弱とか。