宮内泰介・藤林泰『かつお節と日本人』

かつお節と日本人 (岩波新書)

かつお節と日本人 (岩波新書)

 かつお節の歴史を、特に東南アジアや太平洋の島々との人や商品のやりとりに注目しつつ描いた本。鶴見良行の影響を受けた東南アジアとの関係を重視したもの。つーか、最近は輸入が多いのな。
 古代からカツオの加工品は生産されたが、現在の姿になったのは江戸時代になってから。土佐で焙乾やカビ付けを行う技法が開発された。また、かつお節はその発生当初から、中央市場と直結した商品であり、その消費市場は大阪・京都・江戸などの大都市に集中していた。また、かつお節は軍需物資としての性格も強く、室町から戦国時代にかけては、ジャーキーのような食べ方をされていたらしい。これに関しては中村恕斎の日記のダイジェストである『幕末武家の時代相:熊本藩郡代中村恕斎日録抄』で京都警備や戊辰戦争に出征する親族にかつお節を頻繁に贈っていた印象的だった。携帯蛋白源として、この時代にも重視されていたと。その後、近代の軍でも携帯食糧として採用される。しかし、明治10年の携行食の乾パンとかつお節ってすごい組み合わせだなあ。軍需は価格を押し上げる要因になった。
 全国市場の商品だったため近世から産地のブランド化と競争が行われ、その延長線上で近代にはいっても産地間競争が行われた、その中から現在の三大産地である鹿児島の枕崎、山川、静岡の焼津などが台頭する。また、その産地確立のツールとして、博覧会と先進地である高知から指導者を招くなどの行動が行われた。
 同時代、大日本帝国の拡大にともなって、かつお節の生産地は、南方に拡大した。沖縄や台湾で明治末から移入の努力が行われる。好漁場を利用した生産の拡大。エンジン付き漁船の建造費の補助や技術者の派遣など行政の後押しもあり、沖縄では生産が拡大する。本書の主役といってもよい池間島では、住民によって組織された組合による生産が組織する。しかし、昭和恐慌による需要の減少によって、どんぶり勘定だった組合は破綻していく。この池間島などの経験者が、第一次世界大戦によって獲得した南洋の島々やインドネシア・マレーシアなどでのかつお節生産を担うことになる。パラオ、マレーシアのサバ州インドネシアのスラウェシにかつお節生産の企業が成立する。このうち、インドネシアの大岩漁業以外は国策会社として潤沢な資金のバックアップを受けていた。しかし、10年ほどの繁栄の後、太平洋戦争の敗戦によって、これらのかつお節生産企業は消滅することになる。現地人を雇っていたスラウェシの大岩産業以外は廃墟を残して消滅するが、スラウェシの大岩産業の遺産は、戦後のかつお節生産再開への種となる。
 戦後、産地は鹿児島や静岡など特定の産地に集約されていく。また、最終段階の削り工程の機械化などが行われる。しかし、生産工程の変化と消費の拡大を引き起こした最大の変化は、かつお節の消費方法の変化である。パック詰めの花がつおの普及。結果として脂肪の少ない南洋産の冷凍かつおの輸入の拡大。また、だしの元などの調味料への利用が拡大し、戦後、かつお節の生産量は一貫して拡大していくことになる。
 最後はスラウェシ島ビトゥンでの、かつお節生産の歴史。戦前、日本人漁民の進出から大岩産業による企業化。敗戦による中断を経て、戦後、70年代以降生産再開の模索が行われる。90年代以降安定期に入り、現在ではインドネシア産を前面に押し出した産地としての新ブランド形成の動きまでを整理する。
 終章の御前崎での地域おこしとして、かつてのかつお節生産の記憶をたどる動きや焙乾のための薪の供給ルート、老舗問屋「にんべん」の質を重視した考え方などの紹介も興味深い。かつお節生産は、未だに広葉樹の木材を大量に消費する貴重な産業なんだな。


 以下、メモ:

 一九九〇年代、大洗では七〇社を超える水産加工業者が競い合っていた。人手不足を補うために外国人を雇う試みも始まったが、就労ビザをもたない外国人の不安定な雇用に悩まされていた。その打開策となったのが、日系インドネシア人の雇用だった。一九九八(平成一〇)年にはじまり、二〇〇五(平成一七)年には二九六人を記録した。当時の大洗町民の六〇人にひとりが日系インドネシア人というわけだ(目黒潮「日系インドネシア人の集住化と就労ネットワーク」)。その後、不況のあおりを受けて業者は激減し、外国人就労者も減少傾向にあるが、なお一五〇人近くの日系インドネシア人が大洗の町で働いている。p.2-3

 労働開国はとっくに始まっているんだよな。日系ブラジル人のような教育問題なんかはどうなっているんだろうか。

 はっきりと記述していないところでも、かつお節を常用していたところはむしろ少なかったと推測される、「だし」というもの自体が庶民レベルで普通に存在したものではなかった。かつお節はおもにハレの日や客人用に用いられる、あるいは、階層の高い人たちが使う高級調味料だった。
 しかし、同じ記録は、同時に、当時かつお節が徐々に庶民の間で使われるようになってきていたことも示している。長野県南佐久郡川上町の記録では「現在は鰹節・ごまめ・削節などを使う。昔は、だしは何も使わなかった」p.17-8

 太平洋戦争開戦前の食生活を記録した調査から。この時点では、そもそもだしを取るということが日常的なものではなかったという。まあ、だから高塩分食だったんだろうな。

 先ほど触れた静岡県の焼津は、まさにこのような国家政策に乗る形で、博覧会への出品を重視し、それを通しての地域振興を図った。全国的な基準に沿うような技術向上を図り、それを博覧会を通じて全国に知らしめ、市場を開拓していった。焼津は、その意味では明治の殖産興業政策の申し子ともいえた。p.29

 博覧会を通じた技術の標準化。お酒なんかもそうなんだろうな。

 実は、削り節をパックに入れて売るというやり方は、このフレッシュパック開発前からあった。もとをたどればかなり古く、明治末期に広島の海産物商が干しイワシを削って売り始めたのが最初といわれる。かつお節削りパックの主要メーカーであるマルトモヤマキ(いずれも愛媛県伊予市)は、もともとこの干しイワシの削り節メーカーだった。この干しイワシの削り節を彼らは「花かつお」の名で売っていた。こんにち「花かつお」といえば、カツオの削り節だが、もともとはイワシなど雑節の削り節を指した。また、かつお節を削って紙パックなどに入れて売るという手法も、フレッシュパック以前から存在していた。p.129

 イワシの削り節とかあるのな。検索をかけてみると、静岡あたりがメインなのかね。


 文献メモ:
戦時遭難船舶遺族会連合会『海鳴りの底から:戦時遭難船舶の記録と手記』戦時遭難船舶遺族会連合会、1987
新関昌利『知られざる漁船の戦い:宮城の徴傭漁船群』創文印刷出版、2002
新関昌利『続 知られざる漁船の戦い:宮城の徴傭漁船群』創文印刷出版、2003
服部雅徳編著『漁船の太平洋戦争』殉国漁船顕彰委員会、1992