沢井実『帝国日本の技術者たち』

帝国日本の技術者たち (歴史文化ライブラリー)

帝国日本の技術者たち (歴史文化ライブラリー)

 日本の技術者が、戦前・戦中・戦後、大日本帝国の膨張から崩壊という歴史の流れの中で、どのように動いていったかを追跡した本。高等工業学校と大学卒業者をまとめた名簿が、主要なデータになっている。個々のトピックは興味深いが、ぶつ切りで、それぞれが有機的につながって、
 1920年代以降、大学の工学部や高等工業学校を卒業する生徒は拡大し、さらに戦時体制に入ると養成体制は拡充され、供給される技術者の数は激増する。また、日本の占領地域の拡大にともなって、技術者も占領地全域に散らばっていくことになる。
 敗戦によって、これら植民地に広がっていた技術者、そして陸海軍や軍需産業(特に航空機産業)に吸収されていた技術者が、民需に拡散することになる。民間産業において、技術者の密度が飛躍的に高まる。その技術者は、兵器の大量生産という課題に直面し、生産技術に熟練した者も多かった。それが、家電やカメラ、自動車といった大量生産品の技術改善に貢献していくことになる。ある面では、技術者密度の高まりが、職長支配などの隘路を打破した側面があるんだろうな。
 基礎研究を主体としていた鉄道研究所が、戦後、中央航空研究所や陸海軍の技術者を大量に吸収したこと。これらの新来の技術者が、実践的な課題を科学的な知識方法を持ち込んで解決していく、新たな文化を形成した。また、新幹線の技術開発に大きな役割を果たしたという。あるいは、賠償工事が日本に、コンサルタント会社を生み出させたという。


 朝鮮半島における日窒コンツェルンの活動も興味深い。管理職・社員・準社員・傭員という階層構造が厳密にあり、社宅にも、それが反映されていたこと。朝鮮人技術者を採用せず、中枢部は日本人で固めていた姿。朝鮮人に対する人命軽視。こういうのが、日本国内に向けられたのが、水俣病だったんだな。


 エピローグで、日本を頂点とし、植民地、中国占領地、東南アジアと技術のレベルを位階的に位置づける「帝国主義的技術観」が、大戦中に出現し、それが戦後も克服されなかったこと。それが、戦後の関係再構築のあり方を大きく規定したという指摘は興味深い。このテーマをメインに描くと、すごくおもしろい本ができたんじゃなかろうか。


 以下、メモ:

 学士会編『会員氏名録』昭和三〇・三一年版によると、国公立諸機関のなかで最多数の元陸海軍科学技術者を受け入れているのは防衛庁自衛隊の五一人であり、続いて国有鉄道二〇人、建設省一八人、運輸省一三人、鉄道技術研究所一三人の順であった。戦後の再軍備過程に元陸海軍技術者がどう関わったのかの検討は今後の課題である。p.113

 へえ。

 敗戦後の一九四六年一月に江木は「我が海軍に於ける科学技術殊に航空技術の『レベル』は連合国に比して著しき懸隔があったとは認められない。敗戦の一原因としては要するに科学技術を有効化する生産技術が低かった為である」(江木実夫『支那事変より大東亜戦争に至る飛行機生産技術上の一般教訓に就て』一九四六年)と総括し、戦時中における生産技術。量産技術の立ち後れに注意を促した。江木によると、航空機の場合、修理を通じて生産技術・量産技術を獲得することが重要であったにもかかわらず、海軍における航空機関連技術者の序列は「実験研究関係、設計試作関係、生産関係、修理関係」の順であり、「修理技術者は一般に第四流技術者と見做され」ていた(『支那事変より大東亜戦争に至る飛行機生産技術上の一般教訓に就て』)。航空機が先端技術の固まりであるがゆえに、基礎研究、設計が重視され、戦時中においても試作から量産化に繋げる生産技術、量産技術が軽視されていたことを江木は悔恨とともに振り返っていた。自らの経験を通して獲得された戦時期の教訓として、江木は生産技術、量産技術の重要性を戦後日本に訴えかけたのである。p.142

 うーん、やっぱりずいぶん格差があったと思うが…


 文献メモ:
天野博之『満鉄特急「あじあ」の誕生』原書房、2012
落合秀男『スマトラの曠野から』日本放送出版協会、1975
大塩武『日窒コンツェルンの研究』日本経済評論社、1989
岡本達明他『聞書水俣民衆史』草風館、1990
河田宏『朝鮮全土を歩いた日本人:農学者・高橋昇の生涯』日本評論社、2007