越智敏之『魚で始まる世界史:ニシンとタラとヨーロッパ』

新書740魚で始まる世界史 (平凡社新書)

新書740魚で始まる世界史 (平凡社新書)

 中近世ヨーロッパで重要な役割を果たしたニシンとタラについて扱った本。経済史は、工業とか農業と、それを可能にする「組織」について興味が集中しているので、こういう採集経済に関連する研究は意外と少ないんだよな。
 キリスト教の「断食」が積極的に魚食を奨励するものであったこと。結果として、魚の巨大な需要を創出。それを満たしたのが、ニシンの塩漬けや干しタラであった。こうして、塩漬けニシンは重要な交易品目となり、ハンザ同盟やオランダの商業的興隆の基盤となった。また、ニシンは産卵場所を不定期に変え、突然取れなくなったりするので、その影響は大きかった。近代に入ると、オランダは北海西側に、大規模な漁船団を送り込み、船上で塩漬けする「大漁業」を展開した。それに対し、沿岸国であるイングランドは支配を及ぼそうと試み、長い間の対立を引き起こすことになる。
 一方、さらに北の海域ではタラが漁獲された。これは、スカンジナヴィアの寒風の中で干しあげられ、ストックフィッシュと呼ばれる棒鱈のような干物が長期の保存食として重要視された。イングランドでは、塩漬けにして持ち帰り、干す、甘塩の干物が生産された。近代に入ると、タラの漁業は、北西に広がり、新大陸でも行なわれるようになる。ニューファンドランドニューイングランドといった北アメリカの植民地は、乾燥ないし塩蔵タラの輸出で経済基盤を確立した。また、貯蔵のきくストックフィッシュは、遠距離航海の食糧として重宝され、ヨーロッパの拡大という世界史的な出来事に重要な役割を果たした。また、カリブ海奴隷制プランテーションとの関係も深く、奴隷の食糧として盛んに輸出された。一方で、奴隷用の素質な製品の生産は、ニューイングランドの干しタラの品質面での競争力を下げることになったという。
 漁業と「自由」の問題というのも興味深い。タラ漁に出漁する遠洋漁業に従事する漁民たちは、自分たちの操業の権利・自由を主張し、支配を及ぼそうとする外部勢力や他国の漁民を暴力的に排除した。一方で、このような「自由」の主張が、航海や商業の自由の主張につながり、アメリカの独立運動にも影響していることを紹介する。まあ、個々の漁師がどこまで「自由」だったかとか、微妙なところもあるけど。
 また、最初の章の、宗教的シンボルとしての魚というのも興味深い。中近東から地中海にかけての地域では、古代から魚が豊饒のシンボルとなっていて、魚を共食するという儀礼も盛んに行なわれてきたこと。このようなシンボルとしての魚は、キリスト教にも取り入れられ、聖書にも多数出てくる。この関連で、古代キリスト教は魚食を儀礼の中に取り入れていた。一方で、魚というシンボルは、エロティックな意味も含み、その結果、聖餐からは取りのぞかれてしまう。中世には、四大元素説に基づく医療理論から、魚食は欲望を抑えるものとして奨励されることになる。このあたりの宗教についての解説は、あまり見ないので貴重。
 ニューイングランドの植民地が毛皮交易や本書で紹介されるように遠洋漁業を基盤にしたにもかかわらず、採集経済は経済史の主流からは外れている感がある。経済史でも、田北廣道「中世後期ケルン空間の流通と制度 : シュターペル研究序説(I) 」『経済学研究』65-4、1998などの一連の研究で、ケルンのステイプルが単純な自己利益ではなく、塩漬けニシンの品質管理などの積極的な役割を果たしていたという指摘の中で言及されていなければ、興味を持たなかったかもしれない。そういう意味では、日本語で全体を概観できる書物の出現は歓迎すべき出来事。一方で、こういう書物が文学畑の人から出てきたというのは、少々口惜しい気分もあるな。
 しかし、この本、途中でマンガや小説に横入りされて、ずるずると読み終わるのが遅くなった。結局、10日ほどかけてしまった勘定になる。おかげで、図書館から借りた本の読破のスケジュールがすっかり狂ってしまった…


 以下、メモ:

 いずれにせよ魚は修道院や教会のお気に入りの食べ物となっていく。ベーダの話にはウナギ漁が出てくるが、飢餓に苦しむ人々を助けたければ、なにもわざわざウナギ漁の網を海に投げ入れなくてもいい。当時のヨーロッパではウナギが簡単に獲れたからだ。おそらく聖書の奇跡の再現の物語を、史実のなかに紛れ込ませるうえで生まれた齟齬だろう。春になると無数のウナギの幼魚が川を上り、秋になると産卵のために川を下り、国中の堰や湖や湿地で群れをなし、簗を築いたり網を使えば容易く一年中獲ることができるのだ。そして冷蔵庫等の保存設備がなかった時代には重要なことだが、ウナギは数時間スモークするだけで、保存のきく食品にすることができた。あるいはパイにして保存することもあった。パイとはもともと食品を保存するための調理技術で、パイ生地で器を作り、そのなかにウナギなどの魚を入れて、溶けたバターをなみなみと入れて空気を遮断してしまう。なかにスパイスや干した果物を一緒に入れることもあった。保存のきくウナギのスモークやパイは通貨の代わりとしても使われ、地代として地主に納められることもあった。p.42

 ウナギの食糧としての重要性。燻製にすると保存がきくとか、パイが保存食だったとか。へえ。しかし、ヨーロッパにおいても、ウナギ食の伝統って長いんだな。で、その乱獲に日本人の食欲が手を貸してしまった。

 ラテン語教師にしてみれば万々歳といったところかもしれないが、国家への影響を考えれば喜んでばかりもいられない。もともと宗教的要請から始まったこととはいえ、宗教改革の時代には、すでにフィッシュ・デイは経済的要請どころか、軍事的要請までも満たすようになっていたのだ。まずは漁港が目に見えて荒廃していく。この荒廃はかなり早い段階で顕在化したようで、魚の大きな消費者である修道院をヘンリー八世が取り潰してから一年か二年しかたっていない一五四一年には、海外や海上で購入した鮮魚を販売目的で国内に持ち込むことを禁じる法案が議会を通過した。イングランドの漁業が衰退したため、外国人から魚を購入することが一般的になっていたのだろう。ヘンリー八世の次に王位についたエドワード六世の時代、ウィリアム・セシル卿がロンドンの魚商人に漁業の状況を調査している。魚商人の報告によれば、ヘンリー八世の在位二十年目(一五二九年)あたりにはおよそ四百四十艘の漁船が操業していたのに、この調査が行なわれた、おそらく一五五二年か一五五三年には、その数は百三十三艘にまで落ち込んでいた。
 当時、漁業の衰退は海軍力の衰退にそのまま直結した。島国であるイングランドにしてみれば、これは国防力の衰退それ自体を意味する。漁業は「海兵の養成所」だと当時は考えられていた。戦時になれば漁民は基礎的な訓練なしに、即座に海兵として働くことができる。しかしそれだけのことではない。戦艦がまだ十分特殊化していない当時においては、漁船は軍艦として徴用されたのだ。戦時における漁船の徴用は実際には近年まで続いており、第二次世界大戦時にはタラ漁のトロール船が掃海艇として徴用された。そのせいで戦時中にはタラ漁が停止し、おかげでタラの個体数が増加したそうである。つまり漁業の規模はそのまま海軍の規模を意味した。宗教改革の影響が、イングランドではとんでもないところに現れたのだ。p.53-4

 宗教改革による「フィッシュ・デイ」の廃止が、イングランドでは漁業の衰退に直結し、それがひいては海軍力の低下に結びついたと言う話。民間船舶が軍用船として、主用されていた時代。しかし、この時代のイングランドの漁船ってどのくらいの規模だったのだろうか。そして、徴用された場合、どのように運用されたのか。小さくても、哨戒艇には使えたのだろうけど。

 さらにエリザベス女王の時代とは大きく異なる状況の変化が二つあった。エリザベス女王の時代よりもオランダ漁民への苦情がイングランドスコットランドの双方において頻発しはじめたのだ。「オランダ人たちは彼ら(スコットランド漁民)のくちから魚を釣っている」と。一六〇九年のスコットランドの公文書にはある。これはオランダの大漁業の規模がいよいよ巨大化しつつあることを示していた。p.117

 17世紀になっても、オランダのニシン漁は拡大を続けていたのか。まあ、17世紀を通じて、オランダの黄金期と言われる時代だしな。

 回遊魚であるニシンとは異なり、底生魚であるタラは基本的には一年中漁が可能だが、産卵の時期になると比較的浅い海域に集まるため、その時期と海域が商業上重要な意味あいを持つ。成長の速度は場所によってまちまちで、魚の大きさによって保存加工の手法が異なり、加えて保存加工のタイプによって適切な市場が異なるために、単一の種の漁業でありながら、その漁場によって、交易に必要な条件がまったく異なってくる。p.149

 タラ漁業の多様性。加工法と市場が多様であると。

 上記の三種類のなかで、持ちが一番いいのは塩ダラだった。つまりストックフィッシュよりも航海のための食糧として打ってつけということで、冷凍技術が生まれるまえでは、赤道を越えても腐ることのない数少ない保存食だった。大航海時代といえば黄金や財宝、スパイス、植民地の獲得といった華々しいイメージばかりが先行する。だが、ストックフィッシュがヴァイキングの高い航海能力を支えたように、ストックフィッシュや塩ダラがなければ、大航海時代があそこまで爆発的な勢いを持つことはなかったのではないかと考える研究者は多い。p.154

 へえ。長期航海の食糧と言えば塩漬け豚肉ってイメージだったけど。塩ダラも重要だったのか。そもそも、私の持っているこの種の知識が18世紀主体だからなあ。というか、ホーンブロワー経由というか。あとで、手持ちの本を調べてみよう。

 しかしポルトガル漁船からの見かじめ料だけでは塩不足を補うことができず、結局はフランスから購入することになるのだが、この塩不足がニューファンドランドでのイングランド漁船の方向性を決定する。前述したとおり、彼らは塩を抑えた甘塩の干物を考案した。しかしそのためには、漁場近くにタラを干すための良好な干場が必要だった。カナダの東側沿岸部は霧が多く、干場の条件として必須である日照時間の長さがあるのはニューファンドランド島の南部にあるアヴァロン半島しかなかった。そこでイングランドの漁船はその海域に集中し、その有り余る武力をもって他国の漁船を駆逐していく。イングランドではじめての植民地建設がアヴァロン半島であったことにはそうした背景がある。エリザベス女王より特許を得て植民地の領主となったのはハンフリー・ギルバート卿だった。一五八四年と一五八七年にヴァージニアの植民地化を試みて失敗した女王の寵臣ウォルター・ローリー卿と異父兄だった。ギルバート卿は一五八七年に女王から特許状を取り、同年の計画では新大陸それ自体に辿り着けなかったが、八三年にはアヴァロン半島のセント・ジョーンズを確保し、その領有を宣言した。前出のパークハースト卿も、後者の計画には出資している。もっともこの植民地は、またたくまに消失してしまうのだが。
 ニューファンドランド島南部から追い立てられたフランス漁船は、ニューファンドランド島の北にあるノヴァ・スコティアやラブラドル、あるいはセント・ローレンス湾、そしてニューファンドランド島の南部に広がる「バンクス」と呼ばれる浅瀬の漁場へと移動した。「バンクス」のタラはニューファンドランドのタラよりずっと大ぶりで、干物には適さないため「グリーン・フィッシュ」にするしかなく、塩不足に悩むイングランド漁船には手が出しにくい漁場だった。p.167-8

 塩の供給状況が、イギリス系とフランス系の居住地を分けたってことか。なんか、遠大な話だな。