中川委紀子『根来寺を解く:密教文化伝承の実像』

根来寺を解く 密教文化伝承の実像 (朝日選書)

根来寺を解く 密教文化伝承の実像 (朝日選書)

 高野山上に築かれた大伝法院の建立から、現在まで受け継がれた、新義真言宗の法灯の歴史を描いた本。新聞連載だったそうだが、それにしてはなかなかの歯ごたえだった。
 大伝法院は、覚鑁高野山で廃絶していた伝法会を再興するために、鳥羽上皇の支援を得て建立した施設で、現在の根来寺はその末寺で、大伝法院の所領群の中心部に位置する豊福寺がその源流であった。豊福寺は、葛城山系の山岳修業の拠点としての意味もあった。
 密教寺院の伽藍配置や本尊、壁画などは、密教の思想を現世に具現化し、目でその教えを理解させるためのものであったこと。大伝法院もその例に漏れず、覚鑁密教思想を反映したものであったことが紹介される。
 大伝法院と金剛峰寺は、それぞれ座主職が、仁和寺と東寺の僧から任命されるため、バックボーンが違い、対立しがちであったこと。さらに、院政期から鎌倉時代に至る政治情勢の変化の中で、院の後ろ盾を失い、大伝法院側が弱体化したこと。両者の対立の中で、伽藍が焼き払われるといった事態も生じた。しかし、大伝法院と金剛峰寺は、その後も15世紀半ばまで共存を続けた。
 一方で、大伝法院は、その活動を、現在の根来寺に移しつつあった。13世紀には、教学を発展させ、中興と言われる頼瑜が現れ、大伝法院・根来寺密教教学の中心地として、学僧のネットワークの中心となる。醍醐寺を初め、各地の真言宗寺院に残された、テキストの写本から、頼瑜を中心とした教学ネットワークの姿が明らかになる。教学の伝授を受け、テキストを書写するために、九州から東北まで、各地の真言僧が訪れた。この時期、僧の養成機能が高野山上の大伝法院から根来寺に移転したとも言える。
 14世紀以降、覚鑁が構想した伽藍を、山下の根来寺で再興するプロジェクトが開始された。14世紀半ば、現在の伽藍が並ぶ土地が、尾根を削って造成。その後、大伝法堂と本尊の再興、大塔の建設が続き、全てが完成したのは16世紀半ばと、200年近い時間をかけて、大伝法院伽藍の再現が行なわれた。特に大塔は、現在に残る密教形式の塔としては唯一のものであり、その建設には100年近い時間がかけられた。
 このような大プロジェクトによって、宗団の結集力は高まり、室町時代後期から戦国時代にかけての政治的混乱の時代、根来寺紀伊から大阪平野南部にかけて、大きな影響力を持つ有力な政治勢力となり、その名はヨーロッパまで知られるようになった。しかし、最終的に、天下人豊臣秀吉の攻撃を受け、根来寺境内は炎上。尾根上の中心伽藍を除いて、全てが焼け落ちることとなる。また、大伝法堂は、解体され、持ち去られてしまった。
 江戸時代に入ると、根来寺は真義真言宗の中心寺院として、早い段階から復興を見せ、院家が立ち並ぶようになる。紀州徳川家の支援を受け、徐々に伽藍は再建されていった。しかし、秀吉の紀州攻めを受け、新義真言宗の教学伝授は智積院長谷寺に流出し、大伝法堂の再建は19世紀までずれ込んだ。
 根来寺の法灯は、現在まで、何とか受け継がれた。しかし、その文化的景観は、危機に瀕し続けていることが指摘されて、本書は、閉じられる。地図を見ても、北の山地では採石場で山が削られ、旧寺域は道路建設などの開発にさらされた。根来寺の境内の文化的価値が再発見されるのは、かなり最近であったことが紹介される。


 本書は、醍醐寺に残る史料、各地の真言宗寺院に残る聖教史料や大塔の墨書などを元に、根来寺の「学山」としての姿を再構成することに成功している。この学侶に関連する記述は非常に興味深い。一方で、根来寺の名をとどろかせた軍事力、そして伽藍の再建維持を担った行人層までは、手が届いていないように思う。200年近い時間をかけた伽藍再興を支えた、人員・資材・資金が、どう調達され、どう管理されたのか。あるいは、根来寺関係者の経済・政治活動とその意思決定とか。まあ、このあたりは、根来寺が焼け落ちてしまった時点で、文書史料の残存は絶望的で、最終的に発掘調査から間接的に知るしか手段がない問題ではあるが。
 あとは、近代以後のあゆみも気になるな。現在、根来寺塔頭は片手で足りるくらいしか残っていないが、廃仏毀釈の影響をどの程度受けたのか。


 以下、メモ:

 このとき、解体された建築部材から大工方や参拝者の墨書100点以上が確認され、図らずも、計画から完成までの経過が知られることになった(『国宝大伝法院多宝塔修理報告書』)。p.208

 三上喜孝『落書きに歴史を読む』との関連で、どんなことが書いてあったか気になるな。

 長禄元(一四五七)年、再び両者の用水争いが勃発。守護側が仕掛けたこの相論は、長禄四年五月二五日に遊佐豊後守、神保近江入道父子など、七〇〇余人が討ち死にした(『大乗院寺社雑事記』)。守護大敗で決着するが、騒然とした事態が続いた。根来寺側の大勝は当時の勢力を物語るのであろうが、熱田公氏によれば、この一件は紀州にとどまらず、守護畠山氏の分裂、応仁の乱(一四六七〜七七)へつながる、時代の転換点となった(熱田公『和歌山県史』)。p.209

 守護方の討死700人って、すごい数だな。どういう負け方をしたのやら。遊佐氏とか、神保氏とか、室町の政治史で良く見かける名字だな。
 あと、この当時の紀伊守護って、どの地域まで影響範囲にしていたのかね。南のほうへの影響力はどの程度のものだったのだろうか。

 当時、すなわち一八世紀初頭の根来寺は、二〇余りの堂塔や八〇余りの院家が復興していたが、学問寺である法灯を継ぐ学僧の養成は、寺外に根来寺の歴史を継いだ京都知積院と奈良長谷寺でおこなわれていた。というのは、根来寺内に復興した院家のほとんどが行人という下層僧侶の院家で、行人は法度によって、学問寺として学僧を養成する権限を許されていなかった。本堂や伽藍を修復して根来寺を再興するには、まず学問寺としての法灯の復活が先決であった。
 そこで寺外にあった知積院と長谷寺は、和歌山藩に願い出た。少しのちの記録である『紀伊国名所図会』(文化八、一八一一年編)のよれば、宝暦元(一七五一)年に、紀州徳川家六代藩主宗直は寺内の行人を追い、蓮華院と律乗院を根来寺学頭に任じ、学頭制を復活した。p.262

 うーむ、復興の担い手をあっさり追い払うとか酷い。
 寺内での出世が封じられていた行人が、積極的に山岳修業を行い、修験道の形成に中心的役割を果たしたとか、行人層にフォーカスすると、別の仏教史が見えてきそうだな。