講演会「中世球磨郡と相良氏」

 「本遺産認定記念 ほとけの里と相良の名宝─人吉球磨の歴史と美─」の講演会、三つ目。皆勤賞だったな。ここしばらく、県立美術館はご無沙汰だったんだが、急に集中していくことに。今回は、中世史研究者による、球磨郡の在地の勢力の動きを紹介する話。文書の方にフォーカスした話。院政期から南北朝末期あたりまでの時代を扱う。


 最初は荘園公領制の話。10世紀の律令制の解体で、律令制度と関係が深かった開発領主の荘園は、系譜が途切れる。また、東アジア全体の動揺の中で、日本でも体制の解体が進む。そこからの復興として、地元の勢力に、貴族や大寺院が技術・資金を提供して、新しい荘園制度が構築される。荘園をめぐって形成された京都と各地域の関係は、いわば国家の各要素をつなぐ糸となった。
 そのなかで、院政期には、郡司の須恵氏を中心に、上球磨の久米氏、中球磨の平河氏、下球磨の人吉氏などの在地有力者が割拠していた。
 12世紀は、国外の動揺が波及し、領域的な国家と海域の曖昧な境界領域の勢力の対立が起こった。この一環で、球磨郡でも、平河氏の拠点が、球磨郡日向国、八代などの人々を巻き込んだ、大規模な軍事抗争が発生する。
 また、完全には組み込み切れていない南九州を「日本国」に組み込むため、「国家護持」の軍神である八幡神/天台宗の勢力が、正八幡宮を中心として九州南部に積極的に扶植された。また、郡規模の大規模荘園の嚆矢である島津荘といった中央勢力の荘園が配置される。
 院政期の仏像が球磨郡に多いのは、1146年の合戦の戦災復興とともに、南九州をにらみ、国家支配の拠点として「日本」に組み込む必要があったからと指摘される。
 神仏習合で、グローバルなものである仏教を、「日本」の守護神として取り込んだ。神仏の力が届く範囲が中世国家の国土という指摘が興味深い。


 続いては、相良氏が球磨郡に所領を与えられた理由。
 平氏の時代、肥後国平清盛の異母弟である頼盛が、八条院と連携しつつ、勢力を伸ばした。肥後の有力者である菊池氏や須恵氏、平河氏との関係が推測される。球磨郡が蓮華王院・八条院領である球磨御領となったのも、このような在地勢力の承認によるものと思われる。
 頼盛は、平氏都落ちの時、京都にとどまり行動をともにしなかった。平家滅亡後は、頼朝に庇護を受けることになる。独自の利害と力を持っていたということなのだろうな。結果として、肥後の在地勢力である菊池氏や須恵氏は、平氏の与党として滅亡することなく、生き延びることになる。
 また、球磨御領は下球磨の人吉荘、中球磨を幕府直轄領、上球磨を公領という三分割する形で再編される。このとき、相良氏が人吉荘の地頭職などを与えられるが、相良氏ももともと蓮華王院領に出自するというように、頼盛・八条院との関係がある人々であった。
 頼朝は、朝廷の有力者である八条院との交渉役として、頼盛に期待するところがあったのだろうと指摘する。
 こうして、球磨郡に入部した相良氏は、在地勢力と協調しながら、勢力を伸ばしていくことになる。球磨郡全域に利権を持つ平河氏との婚姻関係。球磨郡全域にかかわる重要寺院である勝福寺を真言宗に変えつつ、再興する。このような形で、ヘゲモニーを得ていく。


 上球磨の多良木に、惣領家である上相良氏が。そして、人吉荘には、庶流である下相良氏が配置される。近世大名として生き残ったのは、下相良氏(それも乗っ取られているけど)の系譜であった。このような逆転が起きた原因は、惣領家の上相良家が、全国的なネットワークの維持管理にかかわり、多良木の開発・勢力伸長にリソースを割けなかったこと。これに対し、人吉荘開発を主に担った下相良氏は、早い段階で嫡子単独相続に移行し、結束を維持しつつ、地元に勢力を扶植していった。置かれた状況の差にあった。
 地元への密着度の違いが、武士団の親族ネットワークが切れていく戦乱の時代、南北朝の騒乱で顕著に現れることになる。鎌倉時代に没収されていた人吉荘北方の回復運動で、下相良は、上相良を出し抜く。これによって、上下相良の対立は決定的になり、南北朝を通して抗争を続けることになる。それとは別に、回復した人吉荘北方は一門や姻戚に、「一分地頭」として配分され、結束を強化する。同時に、戦時には、軍功の報告や恩賞の配分などは下相良家宗家を窓口とすることになり、下相良家の支配力は強化されることになる。山田城の攻防で、下相良家が上相良家を破り、中球磨地域の諸勢力への恩賞の配分を通じて、確固たる影響力を確保する。
 南北朝の後半、今川了俊九州探題として九州制圧を行なう段階では、球磨郡の武士は、いったん北朝側として足並みをそろえる。了俊が対島津で組織した「南九州国人一揆」に球磨郡の武士は参加している。しかし、その名簿を見ると、上下相良家の力の差がはっきりと示される。上相良家が上相良の在地の武士の一揆の一員でしかないのに対し、下相良家は単独で下球磨を代表している。
 下相良家は、南朝方の征西将軍府からの球磨郡一円の支配者としての承認を餌に、南朝方に転じる。それ以前の一色範氏の恩賞の「空証文」も含め、これらの上級権力が発した恩賞としての支配の承認が、実力での勢力拡大を正当化する基礎となる。その後、下相良氏は、球磨郡のみならず、恩賞として「与えられた」八代郡葦北郡、日向方面へ、積極的に進出し、戦国時代最盛期の三郡支配へとつながっていく。
 南北朝期の九州では、「中央権力」の具体的コントロールはほとんど効かなくなっていたが、このような勢力拡大のお墨付きとしての「恩賞」は求められ、幕府や朝廷の「権威」は保たれた。


 相良氏は中世肥後の厚みを背負っている。そういう存在であると。