岡部いさく『クルマが先か?ヒコーキが先か?』

クルマが先か?ヒコーキが先か?

クルマが先か?ヒコーキが先か?

 県立図書館にまとまって入っていたので借り出し。自分で買えといわれると、スペース的に厳しい。つーか、1000円以上の本は、たいがいが図書館だな。
 航空機産業と自動車産業の関連とか、イメージの影響関係とか。蛇の目成分が高いのは、著者が著者だけに納得というか。全体的な構成は、第一章が航空機と自動車の両方を生産した企業の話、第二章がデザインの相互関係、第三章がイギリスの技術史、第四章はイギリスのサーキットの話。
 ガソリンエンジンという共通の動力を使っているだけに、20世紀の前半には、両方に関わる企業は結構多かったんだよな。アメリカに兼業したメーカーがないのは、早い段階でフォーディズムが出現して、自動車生産の技術と航空機生産の技術が分かれた側面が大きいんだろうな。まあ、第一次、第二次、両世界大戦を通じて、航空機用エンジンの生産に英米の自動車メーカーが関わっているし、そういう意味では、割合最近まで自動車産業と航空機産業はつながっていたと言えそうだが。両方で成功したメーカーはあまり多くない印象。サーブは、スウェーデンという国柄が影響していそうだし、戦後の日独の航空機メーカーが自動車生産にかかわっているのは、航空機の開発生産を禁じられたのが大きな理由だろうし。
 第二章はデザインの相互影響。戦後、アメリカの自動車がジェット機のデザインを意匠として取り入れたエピソード。エンジンを隠すか隠さないかが、自動車と飛行機で、だいぶ違う話。あるいは、後ろ向きに座るパターンが比較的少ないとか。急減速には、後ろ向きの方がいいのか。後ろ向きに座る乗り物というと、ケッテンクラートを思い出すな。あるいは、昔の大砲とか。防盾に座席がしつらえられている砲なんかもあるんだよな。
 第三章は、イギリスの技術に関するエピソードを雑多に。イギリスと日本の技術的関係。戦前には鉄道、艦船、航空機などで多大な影響を受けたけど、自動車は戦後まで影が薄いと。まあ、そもそも、イギリスとの技術的関係って、時代が進むほど薄れていく感じだよな。もともと、イギリスって製造業があんまり強くないというか、製造業に投資しないお国柄だし。あるいは、同じモデルを長く作り続ける習性の話とか、ネイピア社のエンジンのお話とか、イギリスの弱小スポーツカーとベネット少将のお話など。蛇の目成分濃厚。
 第四章は、サーキットと飛行場の関係。英米では、第二次世界大戦に空軍基地として利用された土地が、戦後、サーキットに転用されたと。広い土地、爆音を響かせても文句が出ない立地は、どっちにも便利と。ブルックランズのサーキットが化物車の実験場としても、航空機の揺籃の場としても、歴史に残っている話。サーキットの立地。最後はグッドウッド・サーキットの「フェスティバル・オブ・スピード」のレポート。

 ところが1950年代になると、日本にイギリスのクルマの技術が流れ込んでくる。乗用車の市場をつくり出そうとするメーカーが、いろいろ外国のクルマのライセンスを買って、日本で生産し始めたのだ。たとえば日産は、イギリスのオースチンと技術提携して、まずA40を、それからA50を国産化した。いすゞ自動車ヒルマン・ミンクスを生産した。日野のルノーと並んで、1950年代後半から1960年代初期の都会じゃ、これらの日本製イギリス車がタクシーとして走っていたのだ。
 (中略)
 それにしても、なぜ日本のメーカーはイギリス車をライセンス相手に選んだんだろう。詳しく検証したわけじゃないが、巨大なアメリカのメーカーに進出の足がかりを与えると、揺籃期の日本のメーカーはたちまち圧倒されてしまう、と当時の通産省あたりが考えたんだろうか。そういえば昭和30年代あたりは、コカコーラだって輸入が制限されていて、清涼飲料といえばサイダーだった時代もあったっけ。いずれにせよ、1950年代のアメリカ車なんて、当時の日本の燃料事情や道路事情に合っていないことおびただしかったろう。
 あるいは1950年代のイギリスではクルマが大事な輸出商品とされていて、政府レベルで強い売り込みがあったのだろうか。イギリス車ならサイズや性能が日本の市場に合致していたといわれれば、納得できないものでもない。なるほどオースチン社にしてもヒルマンのルーツ社にしても、当時の純イギリス大手メーカーだから、提携相手としての信頼度は高かったろう。通産省がそういう点を考慮してメーカーを指導した、なんてことがあったのだろうか。p.145-6

 へえ。技術的にも、イギリス車の方が手ごろだったのかもしれないな。アメリカの巨大メーカーの生産技術を導入するのは、当時のメーカーにとって投資し切れなかったとか。まあ、やたらとでかいアメ車より、ヨーロッパの車の方が日本に適していたのは確かだよなあ。