井上文則『軍人皇帝のローマ:変貌する元老院と帝国の変貌』

軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡 (講談社選書メチエ)

軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡 (講談社選書メチエ)

 3世紀、ローマの体制が揺らぎ、軍人皇帝が多数出現、分裂が進む中で、帝国の支配層の交替が見られた。バルカン半島北部、ドナウ南岸のモエシア・パンノニア地域の総称、イリュリクム出身者が連続的に皇帝の地位に就くようになる。ローマの衰亡期に、どのような変動が起こったのか、政治史を追う。
 2世紀後半、マルクス・アウレリアヌス帝の治世以降、外敵の侵攻が激化し、体制は変動を余儀なくされる。元老院議員が文武の官職を歴任しながら昇進していくスタイルが維持しがたくなり、文武の官職が分かれていく。アマチュアリズムが基本の体制から、プロフェッショナルへの変化。その中で、軍隊の比重が大きくなり、「軍人皇帝」が輩出されるようになってくる。セウェルス朝断絶後の238年には、1年間で6人の「皇帝」が現れる「238年の内乱」が発生。これ以後、18年間に12人の皇帝が立つ、混乱の時代となった。これは、皇帝が直接掌握する中央の軍が弱体であったこと。短期間の軍務しか経験しない元老院議員では、対応できないほど、軍事情勢が厳しくなったことが指摘される。国境周辺の軍団を掌握する僭称者と皇帝が戦って敗れる、外敵との戦争で戦死する皇帝が続出した。
 このような状況に対し、混乱の時代を勝ち抜いたウァレリアヌスは、いくつかの改革をなす。皇帝直属の中央機動軍の編成、軍事的能力のある人物を元老院外から広く登用する、国境線各地域に息子や孫を派遣して分割統治を行なう。これらの施策は、ディオクレティアヌスの改革の先駆となり、また、本書の主要なテーマとなるイリュリア人皇帝の出現を招くこととなった。ウァレリアヌスは、ペルシアのシャープール1世の捕虜となり、早々に歴史から消えることとなる。その結果、息子のガリエヌスが帝国中央部を、パルミラの支配者オダエナトゥスが東方を、ポストゥムスがガリアを中心とする西方を支配する三分割体制が出現する。この時期、ガリエヌスの兵力供給源が、ドナウ川流域属州になったことが、イリュリア人皇帝の時代の伏線となった。ウァレリアヌスとガリエヌスが、名門の元老院貴族出身であったが、イリュリア人が多数登用され、皇帝の身辺はイリュリア人軍人で占められるようになり、不安定な立場になった。最終的に、ガリエヌスは暗殺され、イリュリア人皇帝の時代となる。
 中央機動軍の幹部軍人が、中央機動軍の支持を基盤として、帝位に就く時代が続く。268年のガリエヌス暗殺以降、軍に推戴された人物が、比較的短期間に交替する時代が続き、284年にディオクレティアヌスの登場に至る。前代のカルスは、ペルシア遠征の最中に「雷に打たれて」死んだとされているけど、これって軍のサボタージュ臭いな。
 ディオクレティアヌスは、帝国を四分し、それぞれに正帝・副帝を任命し、帝国防衛を担う体制を創出する。男子がいなかったこともあり、非血縁者を能力によって選ぶ体制が出現する。しかし、ディオクレティアヌス退位後、この非血縁の継承システムは、すぐにほころびを見せ始め、最終的には、西方を掌握していたコンスタンティヌスがライバルを排除して、帝位に就くが、その兵力の源であったゲルマン人が、中央に進出し、特に西ローマで力を振るうようになる。コンスタンティヌスの血縁が絶え、その後、最終的にテオドシウスが統一を保った最後の皇帝となり、西のローマは、ゲルマン人の侵入と、ゲルマン系有力者の専横の中で消滅していくことになる。


 文人貴族たる元老院議員が、2世紀以降の外敵の侵攻にたいし、対応しきれず、イリュリア人を中心とする軍事貴族の台頭を招く。コンスタンティヌス帝の時代には、元老院復権し、軍事貴族にはゲルマン人が台頭してくる。しかし、四世紀になると、元老院貴族は爆発的に増大するとともに、富を独占しながらそれを地域に還流しない、収奪者に変貌する。結果として、民衆の支持を失い、ローマの文明の担い手だった元老院貴族は消滅し、ローマ帝国の文明も途絶えることになる。中国の文人貴族との対比で、このような構図を描く。
 しかし、なんか座りが悪いような気がする。すでに、四世紀の元老院貴族は、「文人貴族」としての、教養レベルを維持できなくなりつつあったように見える。官僚や軍人に元老院議員身分が自動的に与えられるようになった結果、「文人貴族」として旧来から存在していた元老院議員貴族って、すでに消滅していた可能性もあるのではないだろうか。「元老院貴族」という名前は同じでも、2-3世紀あたりのそれとは質的に大いに違っていたのではないだろうか。
 地域のインフラ整備などを元老院貴族が支援するエヴェルジェティズムが三世紀末に消滅していたというのも、元老院貴族の質的変化を示唆しているように思える。在地的な背景を失って、出身地へ投資するインセンティブを失う。国家官僚としての自意識が優先され、国家から得る富が中心になる、そういう変化が起きたのではなかろうか。
 あと、宮崎市定の「素朴民族」なる概念を取り上げているが、なんというか、「文明と野蛮」的な、ずいぶん時代遅れな概念のように見えるが。イリュリア人の進出も、辺境とはいえ帝国内の居住者による改革であり、体制内改革と言えるのではないだろうか。
 非常におもしろく読んだが、概念の部分で、ちょっと物足りない気がする。


 以下、メモ:

 また中央機動軍の創設に際しては、騎兵部隊も新たに編成された。ローマ軍ではこれまで圧倒的に歩兵がその主力を占めていた。一軍団は五〇〇〇名程度の規模であったが、騎兵はそのうち一二〇騎に過ぎなかったのである。しかし、アウレオルスの活躍に見られるように、ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治期以後、史料上にしばしば騎兵長官や騎兵部隊のめだって記録されるようになるのである。これらの騎兵長官や騎兵部隊が、従来の小規模な騎兵部隊やその司令官であったとは考えにくい。おそらく、相当大規模な騎兵部隊が、帝国内部に深く侵入してくる外敵への迅速な対応のために、新たに創設されたのであろう。したがって、両皇帝の時代に創設された中央機動軍は、歩兵と騎兵を同程度含むものであったと想定すべきである。これは、四世紀のコンスタンティヌスの時代に制度化されたコミタテンセスと呼ばれる中央機動軍の先駆的形態と評価できるものであった。コンスタンティヌスは、コミタテンセスにその司令官として騎兵長官と歩兵長官を置いたことも知られており、四世紀には騎兵が歩兵と同程度の比重を持つようになっていたことは明らかであるが、騎兵の重点化の淵源もやはりウァレリアヌスの時代に求められるのである。p.71-2

 うーん、重要性と兵力は違うんじゃなかろうか。確かに、増えたし、重要性も上がったんだろうけど。歩兵と騎兵が五分の編成って、逆に使いにくいような気がする。あと、騎兵部隊といっても、遊牧民じゃない限り、戦略機動性はあんまり差がないんじゃなかろうか。馬というリソースを喰う存在がいて、逆に補給の負担は増えるだろうし。

 パンノニアやモエシアでは、内陸部はともかく、軍が多く駐屯した国境沿いの地方ではほとんど大土地所領の形勢が見られなかったが、これはローマ軍から流れる金が小規模な自作農の生活を支えていたためでもあった。自作農の次男三男は、近隣の軍に入り、現金収入を得、その金を家族に回すことができたため、貧農化して土地が富裕者に奪われていくような事態が発生しにくかったのある。言い換えれば、パンノニアやモエシアは、自前の経済力は充分になく、軍から流入してくる富で多くの人の生活が成り立っていたのである。ドナウ川流域の軍は、軍人皇帝時代において帝国の統一のために動いたが、それは一面ではパンノニアやモエシアがこのように帝国の経済全体で支えられていたという事情があった。これに対して、ライン川流域の軍は、後背にガリアという豊かな属州を擁していたために、軍人皇帝時代にポストゥムスらの下、ガリア帝国という独立国を形成できたのであり、逆に言えば自足的であったがために、ガリア帝国は帝国全体のために動くことはなかったのである。p.113

 ふむ。

 基礎訓練期間を終えると、兵士は通常業務に就くことになる。兵士は、戦時でなくとも、日々軍事教練に明け暮れていたようなイメージがあるかもしれないが、実際には、同じくウェゲティウスによれば、軍事教練は月にわずか三度で、それも隊列を組んでの行軍訓練のようなものがおこなわれていたにすぎない。「最初の軍人皇帝」マクシミヌスは、軍団司令官であった時に、五日ごとに軍事教練を施し、模擬戦をおこなわせたとの記述が『ローマ皇帝群像』にはあるが、軍務に熱心な人物の行動して描かれてこの程度であるので、実際の軍事教練の割合はもっと低かったと考える必要がある。
 平時の兵士には、軍事教練以外にこなさなければならない仕事が数多くあった。エジプトから出土した一世紀の軍団兵の当番表パピルスからは、兵士たちには、軍営の門番から司令部の警備、さらには便所や浴場掃除の雑役まで、日々さまざまな仕事が割り当てられていたことが判明する。一部の者は、軍営から離れたアレクサンドリア市郊外の町ネアポリス穀物倉庫にまで派遣されその警備、あるいは管理の業務に就いていた。
 以上に挙げた仕事は一兵卒のになったものであったが、プリンキパレス(下士官)階級に昇進すれば、より事務的な役職に就くこともできた。そのような役職の代表的なものとしては、属州総督の下僚職があった。官僚組織を持たなかったローマ帝国では、軍団兵の一部が属州総督の下に派遣され、事務業務を担っていたのである。このことからも明らかなように、兵士とはいえ、出世しようと思えば、読み書き、計算などの基礎的な学力は不可欠であった。イギリス北部のウィンドランダ要塞から出土した帝政前期の木板文書は、軍営内の日常業務が些細なことまで、口頭ではなく、文書でなされていたことを教えてくれている。イリュリア人の皇帝たちも、軍内で出世していた以上は、読み書きには支障ない能力は有していたことになる。ただし、充分な教養があったとは思われない。前章で、アウレリアヌス帝がテュアナでアポロニウスの幻に会ったエピソードを紹介したが、その時、アポロニウスはパンノニアの人に話がわかるようにラテン語で話しかけたとされている。このエピソードが意味するのは、アウレリアヌスは当時の教養語であったギリシア語を解さなかったということである。p.117-8

 軍団兵のお仕事。軍事教練の頻度は比較的少なくて、警備などの雑務が多かったこと。下士官になると、管理業務を担ったことや官僚制の一部を担ったことなど。

 軍人貴族の系図を辿っていくと際限がなくなるが、要するにコンスタンティヌス朝以後のローマ帝国の歴史で皇帝家を中心に主役を演じた者たちは、イリュリア人、ゲルマン人ヒスパニア人などが混ざり合っているが、ほぼ軍人家系の出身であり、互いに血縁関係で結びついていた。この問題を探求したA・デーマントによれば、三世紀のディオクレティアヌスからゲルマンの諸王を通して八世紀のカール大帝まで、じつは家系図がつながるのである。三世紀半ばに起こったイリュリア人の興隆というのは、西ヨーロッパにおける武人支配のはじまりでもあった。周知のように西ヨーロッパでは、日本と同じく、中・近世を通じて支配者層は軍人貴族であった。彼らの起源は直接的にはゲルマン人の諸王国のなかに認められるのであろうが、しかし、武人が国家を支配するという体制そのもの、あるいはこのような状況を受け入れる土壌というものは、三世紀半ばに生み出されていたと見ることができるのである。p.193-4

 マジで!?
 軍人貴族の家系がそんなに続いたとは。
 しかし、文献リストを見ると、元になったデーマントの論文ってドイツ語なのな。ローマ史は語学の地獄だな…