佐藤彰一『贖罪のヨーロッパ:中世修道院の祈りと書物』

 シリーズ一気読み、二冊目。どうも、読むスピードが上がらない。
 メロヴィング朝カロリング朝時代の修道院の歴史。修道院史の通史としては良くまとまっているが、タイトルにもあるアイルランド修道制が導入した「贖罪」観念がどのような意味を持つかについては、明確に説明されていないような。クリュニー修道院やシトー会なんかは、中世ヨーロッパ史を勉強した人間には、馴染み深いところ。


 初期の修道院の状況を整理したあと、ベネディクト戒律の普及、コルンバヌスによるアイルランド修道制のヨーロッパへの導入とその影響下の修道院の活動、カロリング朝による修道院改革の試みと失敗、クリュニーやシトー会といった新時代の修道制の出現まで。6世紀から12世紀あたりまでを扱う。
 しかしまあ、コルンバヌスの戒律の、夜も、3時間毎くらいに聖務があるというのが、恐ろしい。ちゃんと寝ないと、死んじゃうと思うのだが。


 最初は、標準的な戒律となったベネディクト戒律の普及について。聖ベネディクトが創設した、モンテカッシーノ修道院は、20年ほどで、ランゴバルド軍に攻撃され、いったん廃絶する。そのため、初期の普及ルートは良くわからない。ローマ経由の拡散については、大グレゴリウスのものとされる『対話』が、後世のものではないかという指摘が出されて、揺らいでいる。コルンバヌスの戒律と混合形態のものが北ガリアを中心に広がったと考えられるという感じか。


 続いて第4章から第7章にかけては、聖コルンバヌスによるアイルランド修道制の大陸への導入と、中世前期の修道院の経営や学知について。
 弛緩していた大陸の修道制に対して、峻烈な戒律を持つコルンバヌスのアイルランド修道制は、大きな衝撃を与えた。睡眠をも削る厳しい戒律。さらに、「罪」と「贖罪」を中心にすえた思想は、古代末の欲望の芽を摘む修行から、むしろ、内面を重視する志向となった、と。
 厳しい修行と熱烈な信仰心を持つコルンバヌスに、王家や貴族たちが、競って、帰依した。しかし、単純に宗教心の問題だけではなく、政治的な目的意識も内在していた。この時代、制度としての貴族階級は出現していなかった。有力家門は、建設した修道院での記念祈祷によって、先祖を顕彰し、家門のアイデンティティを固定化することが可能になった。また、家門の一員を修道院に送り込むことによって、地域的な影響圏形成のテコとした。
 また、王家も、天命的な人倫が国家の安定に重要であるというイデオロギーの観点から、また、教化・規律化を通じた支配の安定という観点から、コルンバヌスなどのアイルランド修道制を庇護した、政治的側面が強い、と。


 第5章は修道院の所領経営について。このあたりは、著者の専門分野だけに、詳しい。田園地域への修道院設置は、放棄された古代のヴィラの再開発の側面があったこと。中世前期の修道院は、市場流通をにらんで、所領の寄進を働き掛けた。所領明細帳の重要性。金融や造幣活動など。つーか、中世前期には利息の獲得は、完全には悪ではなかった。むしろ、富を退蔵させない手段として、正当化されたのか。
 第6章と7章は、写本の生産と学問のお話。この時代、書物の生産は非常にコストがかかった、鞣皮紙は、大型の写本では、4ページ分で一頭分の子羊や子牛の皮が必要であった。写本の料紙の確保のために、大量の家畜の飼育が必要であった。また、豪華写本の挿絵のために、海外産の高価な顔料も求められた。莫大な所領から上がる収益は、このような写本の生産に投じられた。それだけに、写本は非常に高価な動産であった。つーか、ヨーロッパでは、木簡とかは使われなかったのかね。パピルスといい、基本、作るのが大変な書写材料を使っているよなあ。あとは、教育や学知の中心拠点としてのカロリング宮廷。カロリング朝の王様の熱意が、カロリング・ルネサンスをうんだわけか。


 第8章は、ルイ敬虔帝の修道院改革と9-10世紀の異民族侵攻による修道院制度の停滞。
 正直、「風紀の粛清」とか言う人間は、どの時代、どの地域の人間でも好きになれないけど。宮廷の聖職者的気風への改変、ベネディクト戒律の標準化、祈祷行為の過度の重視、修道院と外界のつながりを絶とうとする改革。それを受け入れられない旧来からの修道院は、修道参事会へ自らの形を変えていった。
 9-10世紀には、ヴァイキングイスラム教徒、マジャール人の侵入の混乱の中で、修道院は略奪目標となり、修道生活そのものが、難しくなった。ドイツの中部あたりを除くと、大打撃を受けている。特に、アイルランドでは、大陸にも影響を与えてきた修道院文化が壊滅してしまう。イスラム教徒は、ずいぶんとフランスの内陸部まで進出しているのだな。


 第9章は、修道院の新たな息吹。クリュニー修道院を中心とした修道会の形成。労働を否定し、祈りの生活への専心が掲げられた。教皇直属になることによって、司教権力からの自立を果たした。また、分院とすることで、ネットワークを形成。
 一方、11世紀に出現したシトー会は、労働を重視し、隠修士的に「荒野」での修道制活を重視した。また、厳しい戒律で、労働能力が限られるので、牧畜がメインになった。また、助修士の制度化によって、労働力不足の隘路を解決した。一方で、ベネディクト戒律による院長の兼任禁止規定が重視されたために、参事会総会が修道会としての一体性を担保した。
 あとは、隠修士メインの修道会として、カルトゥジオ会派とロベール・ダルブリッセルの事例を紹介。


 一貫して、修道院の独立というか、司教の権限からどう自由になるかが、修道院史のひとつのテーマって感じがするな。

 古代末期から中世初期の教会人や修道士たちの思考に、経済的合理性や利息の観念がいかに深く埋め込まれていたかを詳細に解明したヴァレンティナ・トネアットの近著『神の銀行家』は、退蔵された富は悪しき財貨(貪欲 avaritia)であり、富はいかなる形であれ流通させることにより、善をもたらすのだという思想に染められていたという。そこでは利息付き金銭貸借は、金融活動の促進要因でありこそすれ、利率が合理的であるかぎり、何ら非難される行為とはみなされなかったのである。p.123-4

 へえ。中世後期とは、えらい違いだ。