ジェラード・ラッセル『失われた宗教を生きる人々:中東の秘教を求めて』

失われた宗教を生きる人々 (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズII―14)

失われた宗教を生きる人々 (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズII―14)

 HONZで見かけて、興味を持ったので。
 500ページ近いだけに、平易に書かれている本でも、なかなか手間がかかった。2週間はかかっていないくらいか。どうも、文章にシンクロしなかった感が。著者の問題意識がいまいちピンとこなかったか、純粋にこのあたりの問題に知識不足か。
 中近東と言えば、スンニ派シーア派イスラム教とユダヤ教が目立つが、マイナーな宗教・宗派はたくさん存在する。本書は、その中から、マンダ教、ヤズィード教、ゾロアスター教ドゥルーズ派、サマリア人コプト教徒、カラーシャ族の7つのマイナー宗教コミュニティの現状をレポートし、さらに近年の治安の悪化で移住した先のアメリカで直面する、コミュニティ維持の問題を紹介する。アメリカ社会における少数宗派コミュニティの姿が興味深い。


 なんというか、中近東の宗教集団コミュニティって、想像以上に重層的なんだな。
 章を立てて取り上げている宗教団。イスラム教以前からの宗教の系譜を系譜を引くゾロアスター教やマンダ教。イスラム教の要素を受けつつ元の宗教の色が強いヤズィード教。東方キリスト教コプト教ユダヤ教の古来の伝統を保持するサマリア人イスラムの少数宗派のドゥルーズ派。パキスタンアフガニスタンにわずかに残る多神教徒のカラーシャ族。
 イランで弾圧を受けているバハーイー教徒、シリアのアサド大統領の支持基盤であるアラウィー派、シャバク族などのイスラム諸派アッシリア東方教会アッシリア人。ヤズィード教と似たカカイ族。これらの宗教が言及される。
 レバノン山地やイラク・トルコ・イラン国境の山岳地域は、これらマイナー宗派の避難所となってきた。しかし、イスラム原理主義の躍進によって、避難所は失われつつある。


 イスラムが征服する以前の、パレスチナ・シリア・イラン・イラクの領域の宗教文化空間は、非常に興味深いな。禁欲を旨とし、きびしい戒律を重んじる教団が、マニ教ミトラ教ゾロアスター教と並存。ユダヤ教キリスト教のような一神教があって、それも一枚岩ではない。さらに、ピタゴラス教団やハッラーンの人々をはじめとするギリシアの哲学者を「崇拝」する集団もいたという。ギリシア哲学も、一種の宗教だったんだな。
 ビザンツユスティニアヌス帝が、アテネアカデメイアの教授たちを追放し、それをペルシアの皇帝が喜んで受け入れたというエピソードも興味深い。イスラム教も、初期にはギリシア哲学を取り入れようとしたり、ギリシアの学問の正統は、むしろ中東にあったのだな。それが、近世に入って、ヨーロッパに取り入れられ、ルネサンスとなる。カロリング・ルネサンスの時代でも、ラテン語とラテンの学問は維持されていたようだし。


 ヨーロッパでは異教を根絶してしまったのに対し、中東では、重層的な宗教空間が生き残ったのは、「啓典の民」の存続を許すイスラムの「寛容さ」の賜物ではあるのだろうな。歴史を通して、ムスリムの方が寛容であった、もちろん、ムスリムもことあらば改宗させようとしたり、「偶像崇拝者」とされたヤズィード教徒などは、オスマントルコから攻撃を受けていたわけだが。
 ただ、現在のスタンダードだと、イスラムが寛容とはいいがたくなっているよなあ。イスラムから改宗したら死刑というのが支持されるのは問題だと思う。それによって、宗派間の婚姻をめぐる緊張関係が出現するわけだし。


 エピローグは、アメリカに移住した少数派宗教のコミュニティが直面する悩み。
 20世紀後半のイスラム原理主義運動の拡大、そして21世紀に入ってからの中東の治安悪化で、欧米への非ムスリムの移民の流れが拡大している。アメリカやイギリスのアラブ系移民コミュニティの多数派は、東方キリスト教とがメインであるという。アラブ系と言えば、ムスリムというイメージだったが、全然違うのだな。その点でも、トランプのイラクやシリアからの入国禁止は的外れだったわけだ。
 外部にコミュニティが存在しないサマリア人や土俗的なカラーシャ族は別として、他の宗教は、欧米やインドの移民コミュニティの方が大きくなっていると言うのが、印象的。コプト教徒などの東方キリスト教徒は、アメリカにかなり大きな教会を構えている。あるいは、イスラムの征服時に追われたゾロアスター教徒がインドで大きなコミュニティを維持しているという。むしろ、宗教がアイデンティティの核として、強まる。
 一方で、平信徒に教義を教えない秘教的なヤズィード教やドゥルーズ派は、アメリカの宗教的多元社会で、むしろ苦労すると。学校などで、どんな宗教か説明できず、ばつの悪い思いをする。あるいは、儀礼や戒律を維持し続けるのが難しい。特に、結婚に制限がある宗教は、移民が分散していて適切な相手を見つけるのが難しくなっていると。


 以下、メモ:

 ローマ帝国キリスト教国家となって長い月日が経ち、さらにハッラーンがムスリムアラブ帝国の一部となってからも、ハッラーン人はかたくなに七つの惑星を崇拝し続けた。そして各惑星に聖日を割り当てる古代からの慣習を続けた(バビロニアの伝統に従い、彼らは太陽と月も惑星とみなしていた。また、水星、火星、木星土星の存在も知っていた)。その慣習には、洗練された哲学と科学知識とが一体となって溶け込んでいた。たとえば彼らは地球からの惑星の距離の順に、惑星を祀る神殿を配置した。この惑星への信仰は、緻密な理論に裏付けられていた。それは、宇宙の存在理由は最終的に神の存在によって説明することができ、その神は人間の知性では計り知れない崇高な存在だというものだ。このハッラーン人の考えは、ギリシャの哲学者の出した結論と同じである。神は文字通り言葉では表現できないものであり、人間にできることは、物質界に投影された神の姿を探し求め、それを崇めることだけなのである。p.96-7

 インテリジェント・デザイン理論あたりよりは、よっぽど洗練されているな。
 なんか、知性で計り知れない、非人格的な存在と考えると、単なる物理理論っぽい。それを崇めてどうすんだって感じだけど。そのあたり、ギリシアの哲学者はどう考えていたのか。

 続く数日間にも、私は弱い立場にいるほかの少数派集団から、さらに多くの話を聞くことになる。ワインを飲み、告解を行うムスリムのシャバク族、かつては遠く中国まで及んだアッシリア東方教会の最後の生き残りのアッシリア人、そしてヤズィード教徒に似ているが、ヤズィード教のカースト制度を否定し、シャイフ・アディーではなくスルターン・サハクに従うカカイ族らの話である。窮地にあるイラクの少数派集団の居住地はほとんどこの「係争地」に集まっており、彼らはみな、事態の成り行きに気をもんでいた。p.109-110

 ISの進出で、こういう人々はどうなったんだろうな…

 プラトンが創設した学校、アカデメイアでは、プラトンからアリストテレスに至る哲学を教えていた。六世紀に、非キリスト教徒を弾圧したビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌス一世によって、アカデメイアの最後の哲学者たちが追放された時、ギリシャの学問に熱狂していたペルシア人が避難所を提供したのは当然のことだった。哲学者たちはジュンディーシャープールという町に住まいを与えられたが、そこにはすでにビザンツ帝国の宗教的少数派の学者たちが住んでいた。その後、ペルシア人が中国人とインド人の学者を連れてきた。こうしてジュンディーシャープールはギリシャ語、サンスクリット語、中国語などを教える大きな大学となった。また、ここには地域最大の医療センターとして機能する付属病院もあり、医師になるための試験も行われた(これは当時では驚くほど革新的なことだった)。ビザンチウムの不寛容は、ペルシアの利益となったのである。p.168

 ギリシアの学問の正統な後継者は、むしろペルシアだったと。中東には、ギリシア文化の影響が色濃いんだな。

 この村人たちの祖先が属していたのは、バグダードを拠点とする東方教会だ。ヨーロッパではほとんど知られていないが、かつては世界最大を誇った教会である。中世には全世界のキリスト教徒の十パーセントがこの教会に忠誠を誓い、総主教は世界各地の司祭や修道院を傘下に収め、ローマ教皇よりも広い地域に勢力を及ぼしていた。東方教会の宣教師たちにより、六三五年にはキリスト教が中国に伝わった。その事実は「大秦景教流行中国碑」と呼ばれる古碑に記録されている。p.419

 ネストリウス派って、現在にも生き残っているんだな。それこそ、モンゴル帝国の時代なんかは、広い範囲に影響力を持っていたんだろう。


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 とりあえず、このあたりの宗教に関しては、小川英雄『ローマ帝国の神々』、青木健『古代オリエントの宗教』あたりが直接関連しそう。後者は、本書の解説も書いた人のもの。中東の少数宗派ということでは、小島剛一『トルコのもう一つの顔』も関連するかな。
 参考文献紹介は英語の本ばかりで、さすがにここまで手を延ばす気にはならないが、何冊か、邦訳されている本がある。ジョナサン・バーキー『イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷』、ウィルフレッド・センジャー『湿原のアラブ人』、メアリー・ボイス『ゾロアスター教:三五〇〇年の歴史』、リチャード・C・フォルツ『シルクロードの宗教』、ディミトリ・グタス『ギリシア思想とアラビア文化:初期アッバース朝の翻訳運動』、ピーター・ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム:内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』、ショーンバーグ『異教徒と氷河:チトラール紀行』あたり。

ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書)

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古代オリエントの宗教 (講談社現代新書)

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トルコのもう一つの顔 (中公新書)

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