佐藤彰一『禁欲のヨーロッパ』

 なんか、読むのにめちゃくちゃ時間がかかった。さらに、感想を書くのにも時間がかかっている。
 キリスト教の「禁欲」が社会的な流行として、定着する背景を探る。禁欲の実践に際して、ギリシア医学の知見が導入されているのだが、それについて論じる部分で、著者の私見と当時の文献の内容と現代医学的にその見解が妥当なのか、区別がつきにくくて、混乱する。あと、他の人の研究文献に依拠しているためか、どうも、議論のリズムが安定していないように感じる。


 前半は、キリスト教の「禁欲」に繋がる、節制の実践の歴史と上層階層の女性が置かれた状況が、家族ぐるみで禁欲に走る「社会的禁欲」の動因になったと言う指摘。
 エリート層にとって、軍務を含めた国家に貢献するために、肉体の鍛錬は基本。肉体の維持のために、当時の医学理論では性欲のコントロールも重視された。ローマ時代の後期になると、公務で時間を取られるようになり、鍛錬の時間を取れなくなった結果、節制に重点が置かれるようになる。
 エジプトにおける砂漠地域で禁欲活動を実践する隠修士が出現。様々な階層から出た修行者が、エジプトの砂漠地帯でコミュニティを作るようになる。ローマ帝国の後期になると、市民的自由が様々な面で抑圧されるようになり、そこから逃れたいという意識が、西ヨーロッパ地域の上層階層においてこの種の禁欲修行が受け入れられた背景であると。禁欲修行といいながら、摂取カロリーは、貧しい農民と同レベルであったという指摘も興味深い。農業の季節労働で、必要な食料を確保できていた。
 また、家族制度の問題が、「社会的禁欲」を促進した側面もある。ローマ法における見せかけの自由意志の一方で、12歳の少女が年上の男性との政略結婚の圧力を受ける。また、門閥間同盟の基礎となり、エリート層の再生産の要となる結婚に、国家が介入し、遺産を継承する資格として夫婦に子供が必要と規定され、出産を強要される。女性が置かれた状況を見ると、古代ローマの貴族階層が断絶しまくるのも分かる。著しく若い出産と性行為の忌避が、出生数の減少をもたらした。
 さらに、男性が内縁関係で女性と自由に関係を持つ自由を享受した一方で、女性は内縁関係を「不義」とされ、持参金を失う危険があった。これらの男女の非対称が、女性が家族ぐるみで「禁欲」を実行する要因になったと。


 後半は、エジプトやシリア地域で広がった禁欲修行が、どのような経路で西ヨーロッパ地域に広がったか。
 4世紀後半の個人的な隠修士の存在の痕跡、アレクサンドリア大主教アタナシオスの西ヨーロッパへの亡命や『アントニオス伝』の執筆、聖マルティヌス周辺における禁欲修行や最初にまとまった戒律を伴った修道院であるレランス修道院について。
 前者は、治癒の奇跡にともなう宗教的心性の転換が重要で、マールムティエ修道院は制度的には、未熟だった。むしろ、農村地域のキリスト教化に意味があった。
 後者、レランス修道院はエジプトの修道戒律を導入し、継続的・広域的影響を与え得た。また、レランスの初期の修道士は、防衛線が突破されたあとの、ライン川地域出身貴族の避難所のような様相を示していた。ここで、貴族家門出身聖職者が養成され、ガリア各地の司教の人材供給源となった。しかし、ペラギウスの教説に傾斜し、主流の教義から外れていたために、影響力を失っていった、と。
 6世紀になると、貴族家門が、自己の存在の維持のために司教職へ進出するようになる。一門の構成員のいずれかが司教職を占めることで、長期間にわたって、当該都市への影響力を保持するようなことが行われる。貴族出身司教による都市支配の道具として、聖遺物の掘りおこしや様々な教会施設の設置が行われる。この一環として、都市修道院(バシリカ)の設置が行われる、と。
 一方で、貴族家門や王家による修道院の設置は、修道制の弛緩ももたらした。貴族たちの「禁欲」は、かなり緩やかなものであった、と。その弛緩の事例として、メロヴィング朝出身女性による女子修道院が取り上げられている。貴族的な生活が営まれていたこと、あるいは、『歴史十書』に描かれる王家出身の修道女が騒乱を引き起こした事件などが、その事例として紹介される。