中谷功治『ビザンツ帝国:千年の興亡と皇帝たち』

 うーむ、ここ一年ほどで数十冊新書を買っているが、全然読み終わらない。図書館から借りた本がどうしても優先されてしまう。もっとも、またコロナが拡大してきて、当面図書館を避けるつもりだから、新書制圧ができるかな。
 とりあえず、買った新書のノートは2月以来か…


 本書は、600年ごろから、コンスタンティノープルが十字軍によって陥落する1204年、ビザンツの歴史としては「中期」にあたる時代を中心とした通史。「古代」のローマ帝国から脱皮し、かつ東地中海地域の有力国家として広い影響力を振るいえた時代を描く。
 ヘラクレイオス朝イサウリア朝マケドニア朝コムネノス朝といった親族で継承していく時代と、その間の短命な政権が興亡する時代を繰り返しつつ、徐々に変化していく。
 意外と早い時期に、バルカン半島では差し込まれて、その後征服し返すと、変動しているのだな。「帝国」と呼べる時代を通じて、小アジアが基盤であり続けた。
 あとは、7-8世紀の「暗黒時代」とも呼ばれる史料が欠如する時代が、「中世」のビザンツ帝国を形成する、その過程をブラックボックスにしてしまっている問題。


 序章は、「古代」の終盤、コンスタンティノープルに首都を移したコンスタンティヌス大帝やディオクレティアヌス帝の時代から、帝国の支配組織がキリスト教会に換骨奪胎されていく。そのなかで、西のローマ帝国は消滅し、「ローマ帝国」はコンスタンティノープルを都とする政権のみになる。さらに、ユスティニアヌス一世の征服戦争によって、地中海全域に影響力を持つビザンツ帝国の骨格が形成される。
 親征を行う皇帝と首都から動かない皇帝の対比。
 あるいはローマ皇帝の称号、アウグストゥスカエサルインペラトールの持つ意味がおもしろい。それぞれ、元老院から贈られた称号、血縁、軍事指揮権と関係する。それと相関するように、だいたいは血縁による相続がメインだが、元老院や市民から推戴される皇帝、あるいは軍隊を率いて皇帝位を奪取する者などもいた。しかし、軍事反乱で長期的政権を維持するのは難しいんだよな。結局、ほとんどが短命で非業の最期を遂げている。それでも混乱時代を勝ち残った反乱者が、100年程度続く王朝を創始できている、と。


 第一章は7世紀、ヘラクレイオス帝とその後継者たちの時代。
 反乱が横行する中で、カルタゴ総督の軍事力を背景に皇帝位についたヘラクレイオス。その後、ササン朝ペルシアとの抗争を長い遠征で優位に決着を付け、栄光に包まれるかと思いきや、ムスリム勢力の出現と一戦しての敗北でシリア・エジプトを一挙に失う暗転。失意の中での、死去。ここまで劇的な生涯を送った皇帝も珍しいんじゃなかろうか。
 その後、ムスリムの攻勢を受け首都も脅かされ、バルカン、イタリアでも侵略を受ける状況で、後継者たちは、自ら軍勢を率いて東奔西走することになる。ヘラクレイオス朝4代の後は、混乱の20年を過ぎて、イサウリア朝の時代に入る。


 続く8世紀はイコノクラスムの時代。実はイコノクラスムの実態は、史料状況から、よく分からない。むしろ、実は、その後勝ち残ったイコン護持派が終わった後に作り上げた「神話」だったという指摘すらあるという。なんか、ビザンツ本は、基本的に1990年代刊行の本から時間が空いたので、ちょっとびっくりするくらい読み直しが進んでいるところがあるな。
 あとは、帝国の危機的状況下で進展するテマ軍団の形成、「皇妃コンクール」とそれが示す階層移動が比較的活発な社会の姿、そして、離婚問題が政治問題化する姿。


 9世紀は、イサウリア朝が女帝エイレネをもって倒れ、「改革者皇帝」ニケフォロス1世の対ブルガリア戦争での戦死を中心に、対ブルガリア遠征やテマ制度の明確化など。ギリシャブルガリア方面に、盛んに軍を派遣し、支配地域の拡大を図る一方で、奇襲攻撃を受けての大敗北も頻発する。これは、地域住民の支持がブルガリア側にあったってことだろうなあ。ニケフォロス1世の戦死で、ブルガリア政策は宥和へと方針転換を余儀なくされる。
 あるいは、ビザンツ帝国の制度を特徴づける「テマ制」がその輪郭を明らかにしていく過程。


 第4章は、9世紀半ばから11世紀半ばまでと、ビザンツ帝国でも最長の期間継続したマケドニア朝の時代。特に、歴史の編纂事業や文献の発掘に邁進した文人皇帝コンスタンティノス7世のが大きく取り上げられる。彼を中心とした学問の興業が、古代の文献の現代への継承を可能にした。また、ビザンツの史料も、彼の編纂物を基礎にしているものが多い、と。
 あとは、マケドニア朝の始祖、バシレイオス1世の立身出世物語も印象深い。この時代には、階層上昇の機会があり、そのもっとも成功した例が彼である。一方で、マケドニア朝の時代も時間が進むにつれ、家名を名乗る貴族が姿を現し、エリート層として確固たる存在を示すようになる。
 あるいは、ブルガリアへのキリスト教布教の進展と、バシレイオス2世による第一次ブルガリア王国の征服。彼の軍事力の中核に、北方のバイキングの戦士が姿を現しているのが印象深い。


 11世紀は、マケドニア朝の黄昏。最終的には、後継者がいなくなって、イサキオス1世コムネノスの反乱による王朝交代。その後、有力貴族の政権が交代しつつ、アレクシオス・コムネノスの奪権にいたるまで、混迷の時を過ごす。特にマンツィケルトの戦いの敗北以後の、小アジアの支配の解体が大きい。
 この時代、コンスタンティノープルは、きらびやかな国際都市として、ルーシの戦士、ムスリム、西欧の巡礼者、イタリア商人たちが行き交う町であった。しかし、国家がコンスタンティノープルばかりに資源を集中し、国防は外部の傭兵に依存、商業に関してもイタリア商人に特権を認めると、外部勢力へのアウトソーシングが進んだ結果、地方からの反乱が多発することになる。


 最期はコムネノス朝の時代。内患外憂のなかで即位した彼は、ロベール・ギスカール南イタリア軍、バルカンの遊牧民セルビアなどに親征をくりかえし、なんとか国を保った。その兵力として、エルサレム巡礼の西欧騎士による傭兵が、重宝されたという。
 また、コムネノス朝は、各地の有力貴族を婚姻関係の網の目に組み込み、一門として、ビザンツ帝国を家産的に再編成した。アレクシオス一世の後は、ヨハネス2世、マヌエル1世と継承される。しかし、家産制国家として再生したビザンツ帝国では、コムネノス朝の皇帝が家長として、十分な能力を持たない場合、内紛に見舞われることになる。マヌエル1世が幼い後継者しか残せなかった時に、帝国は急激な解体に見舞われる。その中で、ヴェネツィアに使嗾された第四回十字軍の軍勢がコンスタンティノープルを攻撃奪取し、「帝国」としてのビザンツはここに消滅することになる。


 終章は残照としてのビザンツコンスタンティノープルを奪還したパライオロゴス朝の皇帝は、自律的に行動することも叶わず、西欧からの支援に頼るようになる。歴代の皇妃が西欧出自の貴族からというのが、それを現している。そして、オスマン朝の勢力伸長の前に後退を重ね、最終的に首都を攻略されて消滅する。そして、ビザンツ文人達はヨーロッパへ移住し、古典文化を西欧に伝えることになる。