根津由喜夫『ビザンツ:幻影の世界帝国』

ビザンツ 幻影の世界帝国 (講談社選書メチエ)

ビザンツ 幻影の世界帝国 (講談社選書メチエ)

 ビザンツ帝国の中世における最盛期、12世紀のコムネノス朝時代の特徴を明らかにしている。国力が伴わなくなった12世紀に、ビザンツはどのように「世界帝国」であることを自己主張し、それを世界に認めさせようとしたか。


 第一章から三章までは、中心的な話の枕の部分。
 第一章はコムネノス朝の特色。有力貴族層を婚姻によって政権に取り込み、国家中枢のエリート集団として皇族に再編したこと。この結果、皇族外には有力な勢力はなくなったが、皇族が有力なライバルとなったこと。
 第二章は皇帝権の権威を主張する都市の造営と外交における歓待と贈り物の話。ビザンツ皇帝の贈り物攻勢に対する、他国の君主の意地の張り合い。席次や贈り物などで、演劇的に力関係を誇示し、「実を捨てて名を取る」と書かれているように、ビザンツ皇帝が外交的な駆け引きの中心にいることを誇示するために莫大な金品が使われた。このあたり「中華思想」というか、非常に「世界帝国」らしい虚構の世界システムが興味深い。
 第三章はコンスタンティノープルの繁栄を描いている。この章が、全体の中で浮いているような気も。貿易の中心地としてさまざまな国の人びとが集まっていたこと。帝都における祝祭と「市民」の関係。庶民の生活など。プトコプロドロモス俗語詩の紹介がおもしろい。
 第四章と五章はこの時代のビザンツ帝国外交政策と戦争について。単純な実力だけではさまざまな勢力を圧倒できない中で、巧みな外交で諸勢力を分断し、たがいに争わせる「夷を持って夷を制す」政策とその中でのビザンツ軍隊と戦争のやり方。バランス・オブ・パワーの中で調整役になることで、帝国の威光を主張する。第四章は成功局面、第五章はその破綻。
 ビザンツ軍がさまざまな雑多な集団で構成されていたこと。ノルマン人の近衛軍団やトルコ人部隊、ヨーロッパ人の傭兵騎士、周辺のさまざまな国の援軍などからなる寄せ集めの軍隊であった。それはビザンツ帝国の文明の優越性を示すものと考えられていた。また、比較的低コストで大軍を組織できるので、外交的な威圧を中心にする場合は有効だったことが指摘される。ビザンツ優位な現状維持こそが戦争の目的だった。
 第五章はバランス・オブ・パワー政策の破綻。ヴェネツィアとの決裂とその勝利。ルーム・セルジューク朝との対戦の敗北。イタリア海洋都市間の反目を利用することができず、またアナトリアではキリジ・アルスラン二世がライバルを倒し、領土をほぼ統一することで、ビザンツは直接、舞台に立って戦闘を交えることを強いられる。その結果、ヨーロッパの諸勢力の反ビザンツへの結集とそのルーム・セルジューク朝との連絡による孤立。また、世界帝国としてのビザンツの威信の失墜。マヌエル二世はこの後まもなく死亡し、ビザンツは皇族間の対立による分裂と外敵の侵攻によって衰退し、第四次十字軍によるコンスタンティノープルの占領という破綻へと繋がる。


 しかし、参考文献を見るとビザンツ史は怖ろしい。研究史を把握するだけで、英仏独伊露の五ヶ国語くらいは必要になるし、史料を読むにはギリシア語が必要という。語学が得意でないと手が出ない分野だな。ラテン語はアルファベットが読めるだけましで、ギリシア語はアルファベットからして違うから、さらに泣けてくる。
 これで、講談社選書メチエの攻略作戦は、古代文明関係が終了(ビザンツ帝国は古代ではないが…)。次はどこを狙うか。


 以下、メモ:

 だが、この時期、急激に勢力を伸張させ自信を深めた西欧諸国の人々は、以前にもまして接触の度合いを増したビザンツ帝国の人々に対して、不信と侮蔑の視線を投げかけるようになった。いわく、連中は奢侈と享楽に溺れ、宝石付きのブローチやきらびやかな絹の衣服をひけらかし、無意味な儀礼やらちもない神学論争にうつつをぬかすばかり。口先だけは達者だが、平気で二枚舌を使い、信仰の敵であるイスラム教徒と手を握っても恥じる色もない。おまけに戦場ではまったくの腰抜けで、戦いは金で雇った外人傭兵に任せるか、あるいは金を積んで平和を贖うか、いずれにせよ軟弱きわまりない。p.8-9

 ビザンツ人は、ラテン人の粗暴さと無教養、とりわけ黄金に対して彼らが示す異様なほどの執着ぶりをを強調する。だが、この点を過度に言いつのるのはフェアではないだろう。彼らの鼻先に金貨をちらつかせ、さもしい欲望を煽っていたのは当のビザンツ人なのだから。
 ラテン人騎士たちには、ヴァリャーグ人のような愚直な忠誠心を期待することはできなかった。彼らは優勢な敵の接近を知ると、しばしば真っ先に逃げ去った。彼らと皇帝の関係は、あくまでも封建的な契約に基づく双務的な関係であり、それが不都合になったときには速やかに解消できる、と彼らは考えていたようだ。p.182

 16世紀あたりまでのヨーロッパ人って、基本的に野蛮人なのに異様なまでに態度がでかいよな。しかも感じが悪い。あと奢侈に対してうるさいのは宗教改革以後にも引き継がれていて、興味深い(『ハプスブルクの文化革命』asin:4062583402参照)。

 実に空虚なリップサービスの応酬。
 結局、スルタンは、皇帝の求めに応じて軍事援助を提供すること、配下のトルコマーン族のビザンツ領への襲撃を取り締まること、皇帝の同意なく第三者と協定を結ばぬことなど、多くの約束を皇帝と交わした上で、コンスタンティノープルを後にした。これらの約束の多くが、その後、十分に遵守されたわけではなかったことを思えば、皇帝はただの口約束と引き換えに、莫大な財宝を蕩尽してしまったかのような印象を受ける。p.76-7

 詳しくは後の章で述べるので、ここでは略述するにとどめるが、この時期のビザンツ人は、武力を行使するのではなく、外交力を駆使して四囲の諸国を圧伏することに至高の価値をみいだしていた。皇帝は、周辺諸国間の紛争を巧みにコントロールし、それらの調停者、平和の監督者となることで影響力を行使しようとしたのである。
 そのために彼は、一方の陣営に過度に肩入れしたり、あるいは別の陣営が大敗して壊滅したりすることがないように細心の注意を払っていた。精密に張りめぐらせたパワーバランスの網の目を巧みに操作し、自らはあたかも神のように超然として高みから周囲の諸国を見下ろし、指先ひとつでそれらの君主たちに命令を下す。それが、この時期のビザンツ皇帝が思い描いた理想の国際秩序だったのである。
 その意味で、多くの随員を引き連れ、盛装して来訪する各国の君主たちは、コンスタンティノープルが東地中海の国際政治の中心に位置し、皇帝が華やかな外交的駆け引きの主役の座に君臨していることを内外に宣揚するために欠くことのできない助演者であり、彼ら支払われた莫大な金品は、こうした政治ショーを成功させるために必要な経費として納得ずくで計上されていたのであった。
 世間には「名を捨てて実を取る」という言葉があるが、ビザンツの場合には、「実を捨てて名を取る」ことが徹底して追及された。それが、永久に世界帝国たることを自らの使命としたビザンツの美学だったのである。p.82

 こうした一連の演出から、我々は、以下のような皇帝側のメッセージを読み取ることができるだろう。
 戦争捕虜の登場しない今回の式典の大きな眼目には、第一に、皇帝による「無血の勝利」を観衆に印象付ける狙いがあったものと思われる。次章で詳しく見るように、ビザンツでは、戦闘で敵を撃滅させることよりも、巧みな外交戦術を駆使して、戦わずして敵を屈服させるほうが賞賛される傾向があった。この点では、軍事的圧力をバックに、パフラゴニア地方のトルコ系君侯を臣従させ、カスタモン征服に成功した今回の軍征は、満足できるものだったのである。p.112-3

 このことは、ビザンツの戦争の仕方とも関わってくる問題だが、ここでは、このような周辺諸国の連合軍を皇帝が統率する意味を考えてみよう。それは、この時代の国際情勢のなかで、ビザンツ皇帝が占めようとしていた地位を明らかにしているように見える。
 彼は、もはや自前で大軍を動員できるような超大国の独裁君主ではない。そうではなく、彼が標榜していたのは、周辺の同盟国、服属国から軍勢を集め、それら全体を結集させて、反逆者に制裁を加える宗主の地位なのである。それは、12世紀のビザンツの限られた国力の許で、皇帝が、世界に覇を唱えることを可能にする唯一の戦略だった。p.186-7

血は流さない、しかし資金提供は惜しまない
 この時代のビザンツ皇帝の軍事行動は、それが大規模なものであればあるほど、上述したような軍隊の特徴によって制約を受けた。すなわち、一時的にはかなりの大軍を動員することができたが、作戦終了と同時に、帰国、解散する同盟軍や一時雇いの傭兵部隊が大きな部分を占めたため、長期にわたって作戦行動を続けるのは困難であり、しかも、寄り合い所帯という性格上、指揮、統制の一元的掌握につねに不安がつきまとった、というのがそれである。
 そうした事情を踏まえて、この時代、ビザンツが軍事行動を起こす際には、大略、以下のような特徴が、多くの事例に共通して認められるのである。
 第一に、極力、自らは手を汚さず、外交力を駆使して、他人に戦わせること。
 第二に、自ら血を流さない代わりに、資金の提供は惜しまないこと。
 そして第三に、長期戦を避け、敵と雌雄を決するような決戦はできるだけ回避して、適当な段階で講和に持ち込むこと。その際には、当事者の力関係を再確認するための和解の儀式が重要な位置を占めることになる。
 要するに、この時代のビザンツの戦争の極意は「戦わずして勝つ」ことなのだ。
 自分の手を汚さず、他人に戦わせる、とは、言うまでもなく「夷をもって夷を制す」戦術である。それは、古代ローマ帝国以来、周囲の「蛮族」をあつかう際に再三、用いられてきたこの国家のお家芸であり、武力を用いず、指先ひとつで潜在的な敵対勢力を消耗させる皇帝の才覚は、傑出した知力が生み出した偉大な勲功として、敵を戦場で撃破することに劣らぬ、いや、それを上回る名声を彼に付与した。p.189-190

 それゆえ、今回の作戦においてマヌエルの頭のなかにあったのは、ヌール・アッディーンを徹底的にたたくことではなく、キリスト教諸国のボスの座におさまってアレッポ太守と話をつけ、大物戦争捕虜の解放で十字軍諸国に恩を売れば十分、という計算だったのではなかろうか。この時代のビザンツ帝国の軍事・外交政策の根幹にあった基本方針は、「ビザンツ皇帝の名誉と権利が尊重される限りにおいての、諸勢力の現状維持」だったのである。p.210

 ビザンツ外交の特質。

 1137年7月の日付を持つこの手紙で興味深いのは、文中に登場するユダヤ人たちの名前から、彼らの活動範囲の広さが推し量れることである。
 書き手の従姉妹の息子はコンスタンティノープルで死去したが、彼の家主の義父は「バグダッドの神学教師」だったのが、当時はビザンツの帝都でパンケーキを焼いていたという。書き手の娘婿の祖父は、「リングバルディー(ランゴバルド人)」という異名をもっていたから、ロンバルディアか、あるいは南イタリア(11世紀後半まで、ビザンツ領のテマ・ランゴバルディアが置かれていた)の出身だったのだろう。ほかにも、パレスティナのアッコンから流れてきた子連れのユダヤ人乞食とか、北シリアのハマーの町を家名に帯びた人物など、多彩な人々が登場している。
 こうして見てゆくと、ユダヤ人たちが地中海を股に掛け、旺盛な活力をもって雄飛している様子がありありと眼前に浮かんでくる。彼らには祖国と呼べる存在はなかったが、あたかもそうしたハンディキャップを逆手にとるかのように、国家間の障壁を軽々と飛び越えて、各地に散在するユダヤ人共同体のネットワークを巧みに駆使しながら、よりよい暮らしを求めて自由に遍歴を繰り返していたのである。p.94

 ゲニザ文書の書簡から。東地中海をベースにした人間の手紙だからか、意外と狭い印象が。西地中海方面とか、イスラム世界の他の土地ではどうだったのか。

 外では、夷狄をを征討して帝国の威信を高め、内では、民衆の喜ぶ娯楽をふんだんに提供する。ここで描かれるヨハネス帝の姿は、まさに理想的な君主のそれである。こうして民衆は、彼らのために身を削って奉仕する皇帝というイメージを、満場のスタンドで汗を流しながら、繰り返し叫ぶうちに頭の中に刷り込まれ、彼への愛着と支持の意識を心に植え付けられたのだ。p.121

 祝祭としての戦車競走や娯楽の意義。昔から、イメージ戦略ってのは、あんまり変わらないのかもな。

 このように、全世界からさまざまな民が皇帝の慈悲と恩恵を求め、彼の下で仕えようと参集してくるさまは、ビザンツ人の目には、彼らの文明の優越性を示す明白な証拠だった。野蛮な民は、高度な文明の洗礼を受け、勇敢で忠実な臣民に変身したのである。p.169

 各地からの外国兵による軍隊がどう見られていたか。

 皇帝が国際政治にあれほど深入りせず、内政の安定に努めていたら、ビザンツのその後の急激な没落はなかったのではないか、という議論もこれまで繰り返しなされてきた。だが、ローマ世界帝国を標榜しないビザンツ帝国は、もはやビザンツではあるまい。世界国家の旗印を降ろすことは、ビザンツのとって、国家の存在理由の喪失を意味していた。p.268-9