田中創『ローマ史再考:なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』

 うーむ、途中で本棚の設置と蔵書整理というイベントがあったとは言え、読むのにずいぶんかかってしまった。返却期限が迫ってきたため、取り急ぎノート作成。なんとか間に合った。これで、現在、県立・市立から計11冊借りているうち、2冊クリア。現在借りている本を読み終えたら、いったん、積み本崩しかな。


 タイトルの通り、東ローマ、ビザンツの首都として栄えた、「千年の都」コンスタンティノープルを軸に、ローマ帝国の体制の変化を描く。コンスタンティノープルに改名した時点から栄えていたわけではなく、その後の首都としての発展も保証されていたわけではなかった。しかし、ローマの姿が変わっていく中で、コンスタンティノープル自身も、その性格を変えながら、今のイメージの姿になっていた。
 本書と、南川高志『ローマ五賢帝』、井上文則『軍人皇帝のローマ』を読むと、帝制期のローマ帝国の、学術的な通史のイメージができるかな。


 徐々に、都市ローマとローマ皇帝の距離が離れつつあった中、3世紀に入ると、外敵の侵入も激しくなり、軍人皇帝が乱立する危機の時代に突入する。各地で、その地域のカリスマ軍人を軍隊や地域有力者が皇帝に擁立するが、全土をまとめるには至らない。軍人皇帝の時代を終わらせたディオクレティアヌスも、全土をまとめるには至らない。その中で、彼は、三人の同僚皇帝を任命する複帝制にたどりつく。四人の皇帝は、それぞれ直轄の機動軍団を率い、各地で帝国防衛に当たることになった。そのため、前線に近い都市を冬営地として、宮廷都市が叢生し、ローマの重要性は低下するようになった。この、四分統治も、コンスタンティヌスによって覆される。
 かれは、ビュザンティオンを改装し、宮殿や自身の廟所などを整備し、拠点とする。これは、宮廷都市の建設の伝統と同時に、ディオクレティアヌスが利用した拠点都市から決別する意思表明でもあった。


 第二章は、コンスタンティヌス朝の時代。コンスタンティヌス帝は、複数統治に血統原理を持ち込み、一族で帝位を独占するようになる。親族で互いに争いつつ、コンスタンティヌス係累以外からは、皇帝が擁立されなくなる。また、この時代は、血統原理が導入されつつも、皇帝自身は前線に張り付いての帝国防衛に専念することになる。
 また、同時代に、元老院議員身分が拡充され、騎士身分や都市参事会員から、大量に元老院議員身分の貴族が創出される。中世初期のセナトゥール貴族身分って、こういう人々のことなのね。


 コンスタンティヌス朝は、ユリアヌスを最後に絶え、軍人ウァレンティニアヌス朝に取って代わられる。東方を治めたウァレンス帝は、コンスタンティノープルにほとんど滞在しなかったが、これは、都市との関係の悪さと同時に、水道などのインフラが不足がちで大規模な軍団の滞在などが難しいことも要因にあったという。
 ウァレンス帝までは、移動する軍人皇帝の時代が続いたが、彼の戦死後、跡を継いだウァレンティニアヌス一世の娘婿テオドシウスはコンスタンティノープルからほとんど動かなくなる。移動宮廷は、直属部隊や宮廷の官僚、使用人など数万人が移動する大事業であり、冬営などで滞在する都市にとっても、入念に準備を行う必要がある大事業であった。また、移動する先の都市の有力者が地元の支持者を動員して儀礼の邪魔をするなどの圧力をかけることが可能であるという脆弱性も持っていた。常駐することで、都市における儀礼=国家の支配の正当性を示す行事の主導権を握ることができるようになった。


 テオドシウス朝の皇帝たちは、低く評価されがちだが、アルカディウス、テオドシウス2世がそれぞれ、20年と42年と比較的長期の在位を可能にしていると、東帝国は安定の時代を迎えていた。女性が重要な役割を果たしたことで、かつての歴史家からは指弾されがちだが、実際には敬虔な生活の実践を通じて、帝国の安定を祈念するというイデオロギーを可視化するためのものであった。配下の将軍の勝利も、後方で神に対する正しい崇敬の実践によって支えられているためであったと観念されたという。家族も含めて、神への崇敬を喧伝する必要があった、と。
 この時期、元老院議員はさらに拡大され、外部世界からも採用された軍人・官僚層を統合する舞台となった。また、法典や公会議などの儀礼によって、東西の統一と安定が演出された。


 テオドシウス2世の死後、テオドシウス朝の血統は絶え、なんどか後継者選定で混乱することになる。しかし、コンスタンティノープルを舞台とした儀礼と、その準備のための根回しが、合意形成の場として機能するようになる。兵士や市民団の前に姿を現し、歓呼の声を受けることが民意の表面として重要な意味を持っていた。これによって、兵士や市民の各派閥や宮廷、元老院、聖職者といった首都のステークホルダーの調整が図られた。
 一方、西帝国は、ローマが戦略的要地から離れていたこと。ローマの元老院ガリアの貴族層、北イタリアの宮廷と軍隊の交流が図られなかったことなどが、ローマ市コンスタンティノープルのような役割を果たせなかった原因となった。最終的にローマは、独自の皇帝の擁立を諦めることで、帝国全体の統治という頸木から解放され、ローマ市元老院議員たちは、王の宮廷での活躍や文化活動で自律的に動けるようになった。


 最後は、ユスティニアヌスの時代。この時代、ローマ市の伝統的権威を吸収し、新たなローマとなる。大規模な建設活動や軍事遠征、法典整備やキリスト教会の統一などの事業に取り組む。過去の法典を集成しつつ、時代に合わない法や解釈をあっさりと切り捨てる、キリスト教でも実用的な態度で臨むユスティニアヌスの個性が興味深い。あるいは、法務官職を各種の行政任務のポストに就ける伝統の利用。一方で、征服戦争は、ペルシア帝国の侵攻やドナウ川戦線の混乱、そして泥沼の戦争となった東ゴート王国との戦争の隙にランゴバルドに蚕食されるなど、新たな動乱をうみ、特にイタリアは荒れ果てることになった。


 その後、ローマ帝国ササン朝ペルシアと全面戦争に突入、最終的にヘラクレイオス帝によるササン朝の降伏という勝利を得る。しかし、勝利もつかの間、イスラム教徒が急激に勢力を広げ、シリア・パレスティナ北アフリカを失ってしまうことになる。ヘラクレイオス帝の苦難と勝利、そして、勝利の後の大敗北って、めちゃくちゃ劇的だなあ。
 この大敗北は、「キリスト教の正しい崇敬が勝利をもたらす」というキリスト教イデオロギーに大ダメージを与え、新たなイデオロギーが模索されることになる。


 コンスタンティヌスの宮廷都市にして、東の元老院所在地から、皇帝の儀礼の場へと段階的に姿を変えていったコンスタンティノープル
 ちょっと、まとめきれなかったけど、地域支配の要としての各地のキリスト教会の重要性とそれらを連帯させ、離反させないための努力としての公会議・調整という努力も興味深い。


 あと、ローマ帝国というのが、入市式や皇帝への定時の贈り物の献上といった儀礼を通じて可視化される、皇帝と帝国各都市の連合体のようなものであったというまとめがなるほど感。皇帝の統治は現地の協力で行われ、一方諸都市も皇帝からの恩典がライバル都市との力関係上必要であるという互酬関係にあったという。
 一方で、そのような人格的関係で国家が構成された以上、代替わりや情勢の変化ごとに、関係を確認して、調整する必要があった。