基調講演「近代建築史のなかの山田守と熊本市役所花畑別館」

 「熊本市役所花畑町別館を残してまちと共に生きる建築に」の基調講演。東京家政学院大学の大宮司勝弘氏による、設計者山田守の紹介と花畑別館の歴史的価値について。東海大学と関係が深い人だったのか。熊本市内には、花畑別館と森都総合病院が残っているそうだ。個人的には、森都病院というか、逓信病院の建物の印象が深いな。かかったことはないけど。


 大正後期から昭和高度成長期にかけて活躍した建築家。「作品の割りに名前が知られていない」という言葉があったが、代表作である日本武道館京都タワー知名度に比べると、確かに知名度は低い。戦後、著作が少ないことが、知名度を低くしたと共に、研究のハードルを上げて、研究を少なくする悪循環を引き起こしたこと。また、インターナショナルスタイルの推進など、前衛的な手法が、批判を招く。特に、インターナショナルスタイルなどの様式の代表として、次の世代から代表者として指弾され、現在の建築学会の主流からは評判が悪いこと。これらが影響しているという。


 山田の活動は、三期に分けられる。第一期は、逓信省勤務時代。その後、欧米視察後の第二期。戦後、逓信省退職後の時代。それぞれの時代に特徴的な作品を残している。
 第一期は逓信省営繕局技師として活動していて、渡欧する以前。近代建築の導入期を経て、普及期を迎えた時期。装飾を重視した「様式建築」から脱却し、より簡素な建物の量産が求められるようになってきていた。野田俊彦「建築技芸術論」など、合理主義的な建築の試みが模索された。デザイン系だった山田らは、目の敵にされたとか。そのような思潮への回答として、「分離派建築会」の結成。日本で最初の建築運動とされる。百貨店での展示会などを開催した。
 大学卒業後は、逓信省営繕局に属し、多数の建築家と共に、逓信省関係の建物を設計している。また、関東大震災後は復興院嘱託として、多くの橋のデザインにも関わっている。この時代の代表的な作品としては、「日本分離派の金字塔」とされる東京逓信病院や聖橋などが挙げられる。連続した双曲線による独特なフォルムが特徴となる。現存する作品としては、NTT門司電気通信レトロ館やNTT天下茶屋第一ビルなど。


 第二期は、欧米視察以後。1929年から30年にかけて、逓信省の命令で海外視察を行なう。この視察で、ヨーロッパの建築界の最新動向に接し、インターナショナルスタイルに変化する。グロピウスのバウハウスなどの影響。そして、細かい意匠では、むしろ客船の影響を受けたのではないかというのも、おもしろい。特に北大西洋を往来するオーシャンライナーは、国家の威信をかけて建造された、ずっと30ノットでぶっ飛ばす破格のメカニズムだしな。
 窓の配置など幾何学的な構成を重視し、経済的合理性を重視した建築となる。また、通気や室内の明るさなど、住環境に関する技術にも気を遣っていたという。
 この時代の作品としては、インターナショナルスタイルの金字塔とされる東京逓信病院が代表とされる。現存するものとしては、このシンポジウムのテーマでもある。花畑別館が、元の構想からあまり変更されていない点で、貴重なものとなる。グラフィカルな造型操作、タイルの多用、雨どいのエルボを嫌いまっすぐに下ろそうとするなどの特徴が見て取れると。


 第三期は、戦後、独立した事務所を構えてから後。枷から放たれたように、自由な造型に。その建物の機能的合理性を重視した建築。特に病院を多く手がけたが、現存するのは熊本の旧逓信病院をはじめ3つ程度という。東海大学の各地の建造物、京都タワー日本武道館などを手がけた。
 京都タワーは、最初、タワーを立てる予定ではなかったというのがおもしろい。地下通路で人の導線を作る予定だったが、その許可がおりず、構造物扱いのタワーを立てることにしたと。しかし、トラスでは建てたくないということで、応力外皮構造を採用したとか。そろばんの玉型の展望台の予定だったが、曲面ガラスで歪むので、現状の姿になったそうな。京都の出口として、新幹線を背景にしたのではないかという指摘が興味深い。
 最晩年の京都タワーと武道館が、一番最初の卒業制作のホールとタワーの構想とつながるか。
 また、旧世代の代表的な建築家として、丹下健三の伝統論争で批判の的になったり、京都タワーでは「京都景観論争」で批判を受けたり、日本武道館の「キッチュさ」が批判の対象になったり、様々に批判されたと。


 花畑別館の位置づけについては、第二期で花畑別館に言及された時に主に扱われる。キーワードは「都市の記憶」。建築を取り壊してしまうことは、重層的に積み重ねられた営みを消し去ってしまうこと。痕跡を全部拭い去ってしまえば、結局、ニュータウンと変わらない。意識して、建築を残していく必要があると。
 あと、歴史的建造物が多数残り、仙台とならぶ、日本有数の建築都市という指摘が興味深い。建築博物館といっていい状況であるそうだ。そして、路面電車があるため、それを見ながら移動することができるのが強みだという。
 熊本市民はまったく意識していないといっていい指摘だな。実際、どのような建物を指しているのだろうか。質問すればよかったのだが、ちょっと質問し損ねた。講演直後には思いつかなかったし、シンポジウムラストは時間がなかった。面的に歴史的価値を利用していくというのは、熊本の観光都市としての開発には重要だと思うのだが。


 公演中の写真。