島根県教育委員会・大田市教育委員会『石見銀山遺跡石造物調査報告書5:分布調査と墓石調査の成果』2005

 今月の初めには読み終わっていたけど、なかなか読書ノートがつけられなかった。タイトルにある通り、石見銀山の遺跡範囲内の墓石など石造物の集積地域の調査と、一部の大型墓地の墓石の悉皆調査の成果報告。他のシリーズも手に入れられれば、手に入れたいところだが。
 それまでの銀山遺跡地域内での分布調査の報告と各地域ごとの特徴、石見銀山の石造物の特徴、そしてまとめといった形で構成されている。実際のところ、細かいところで、理解できているとは言い難いが…


 17世紀中盤を画期として、前後で墓石の形ががらりと変わるのが興味深い。戦国から江戸初期の時期には、一石五輪塔ないし宝篋印塔が主体だった。これを中世的墓塔とする。これに対し、18世紀以降には円頂方形墓標ないし円頂方柱墓標を主体としたものに変化する。さらに、後者は、前者の数倍の量が検出されている。ただ、これを人口の指標としてつかえるかどうかは、個人的には少し慎重に考えるべきだと思うが。石塔を建立して埋葬される人間が、全人口のどの程度を占めたのか。それに変化がなかったのか。そこが明らかにならないと、指標としてはちょっと使いにくいのではないだろうか。近世墓標の中での経年変化はともかくとして。
 あとは、城上神社社家の二つの家系の墓地の調査から、家系図を復元している。10歳前後で死亡している人間が一定程度いるのが興味深い。
 羅漢寺の五百羅漢に刻まれた銘文から見える、江戸と石見銀山の密接な関係。
 あるいは、福光石とそれを利用した石工集団。五百羅漢や文書から、坪内姓の石工が複数存在し、今でも坪内姓の人物が福光石を採掘しているというのが興味深い。花崗岩の石材は大坂や瀬戸内の石工が加工を行なっているが、これに関しては、熊本でも同じだな。藤崎宮の狛犬や石灯籠なんか。
 また、大型の寺院墓地の悉皆調査からは、宗派ごとに信徒集団が分かれていたこと。様式の変遷に差があることなどが明らかにされる。
 福光石は、凝灰岩の比較的やわらかい石で、加工はしやすいが、侵食もされやすい。破損した墓石も多数あるようで、きっちりと理解するには、破損した墓石や銘が読めなくなった墓石などを、どう分析に組み込むかも問題のように思う。


石山(福光石採石場)
福光石 - 墓石についての基礎知識
福光石 石切り場見学 その1