藤本正行『逆転の日本史:戦国合戦・本当はこうだった』

 20年ほど前の一般向けムック本。
 今となっては、わりと常識的なことが書いてあるな。戦国大名の戦争の目的は「境目」の争いと家臣団の引き止めであること。家臣団の結束に乱れが、滅亡に直結する。馬ちっちゃい。
 けっこう石が重要な武器であったとか、馬の管理が大変だったとか。調略や小荷駄にページが割かれているのは美点。あとは、『雑兵物語』から引いているトピックが多いのが印象的。
 それなりにおもしろかったけど、残しておくほどではないかなあ…


 以下、メモ:

 投石がもっとも威力を発揮したのは、寛永十四、五年(一六三七、八)の島原の乱だろう。島原半島原城に立てこもった一揆軍三万余の大半は女子供や老人だったし、弓鉄砲の数は限られていたから、誰でもできる投石が格好の武器になった。秋月藩黒田家の長井八郎右衛門は、老婆の投げ落とした石臼に当たって負傷している。鳥取藩池田家の佐分利九之丞は鉄砲で撃たれたうえ、大石に当たって即死、息子の右馬之允も兜と足に石が当たって重傷を負っている。右馬之允が着用していた兜の額に残る深いくぼみが、衝撃の凄まじさを物語る。
 この原城跡や、秀吉が小田原北条氏攻めの開戦当日の天正十八年(一五九〇)三月二十九日に攻略した、箱根の山中城の城壁の下からは、投擲に用いたと思われる石が大量に出土している。p.42

 石臼とかに当ったら、そりゃ、鎧着ていても大怪我するわな。普通の石でも、動きを制限する程度のことはできそうだし。

「北ノ荘城の城中では、石蔵を高く築いた上に、天守を九重に上げてあった。勝家は二百人ほどの人数で天守を守った。中が狭いため、全軍で突入すればお互いの武器で同士討ちになり、死傷者が出てしまう。全軍の中から兵を選び出し、天守の中へ刀剣だけを持たせて切り込ませた。勝家は戦い慣れた武士だから七回も反撃したが、ついに力尽きた」
 この戦闘は無理攻めの最たるものだった。死を覚悟した二百人の精鋭が立て籠もるところへ、選りすぐりの兵に刀を持たせて突入させたのだから、短時間に死傷者続出の惨状が展開されただろう。
 このあと勝家は、天守の九重目から秀吉軍に「切腹の手本にせよ」と言葉をかけ、静かになったところで家族を刺したのち切腹したと書状にある。p.54

 柴田勝家の自刃のところは興味深いな。織豊系の城郭で、天守閣に篭って最後まで戦った例って、あまり見かけない。安土城にしろ、大坂城にしろ、そこで戦いになる前に自分たちで火を放っているパターンが多いように思う。天守の内外で激烈な戦闘って、他に例があるのだろうか。天守の防備の工夫って、それほど意味なさそうと思っていたけど、工夫するだけの意味があったと。
 あと、後の近世城郭が、何十にも防衛線を構築しているのに比べると、勝家の城が、本丸だけ石垣で防備していたような姿が想像できるな。このあたり、千田嘉博『信長の城』に見える信長の居城や初期熊本城とも重なるな。