吉村豊雄『天草四郎の正体:島原・天草の乱を読みなおす』

天草四郎の正体 (歴史新書y)

天草四郎の正体 (歴史新書y)

 「天草四郎」という存在が、益田時貞という個人と重なるものではなく、一揆指導層に創出された虚像であること。似たような少年が多数存在していたことが明らかにされる。表題に反して、ますます人物像が分からなくなっているような。詳細に追えば追うほど、「四郎殿」が本当にいたのかすら疑わしくなってくる。結局、どんな存在だったんだか。そもそも、これだけ大規模な軍事反乱がどのように組織されたかも、詳細は明らかにならないんだから、相当な話だよな。一揆参加者のほぼ全員が虐殺されたという恐ろしい事実。原城跡では、すでに500人近い人骨が発掘されているそうだけど(原城跡発掘調査・骨が語るキリシタン最期の状況 服部英雄)。天草側で一揆を組織した松倉家から離反した牢人集団と、島原側で島原藩と戦った有馬家旧臣村役人層とは、どのような関係にあったのかとか。松倉・寺沢両家からの「若衆」集団逃亡を誰が組織したかとか。肝心なところも分からないんだよな。指導部で、最期が明らかなのは、有家監物=馬場休意のみという。外部からの観測と原城から逃げ出した下っ端の証言くらいしかないんだよな。
 原城落城の後、「四郎首」が十数人分でているというのも、なんかすごい話だな。


 全体の前提として、島原の状況。キリシタン大名であった有馬氏の時代、口之津を中心とする南島原キリスト教布教の中心地であり、住民のかなりの部分がキリシタンとなっていた。しかし、有馬氏が国替えをされた後に入ってきた松倉氏によって、状況はまったく変わる。松倉家は禁教に奔走すると同時に、ポルトガルに対する身構えた政治体制をとった。領内のキリシタンを転宗させる一方、島原領の入り口である口之津には、「用蔵」を設置し、軍需物資を大量に集積備蓄する。これが、後に一揆勢の軍事力の基盤になる。また、キリシタン弾圧の姿勢は家臣団にも向けられ、二度にわたる家臣の集団離脱が起こり、ここで離脱した牢人の一部が、天草で一揆に向けての策謀を行なったことが指摘される。ここの牢人集団から、「マルコスの予言書」と天草四郎につながる奇蹟譚が現れてくる。また、島原の松倉家中、天草の寺沢家中から、大量の若衆が逃亡する事件が発生し、ここで逃亡した若衆たちが、各地で「四郎殿」の分身、シンボルとして活動することになる。将軍家光が、「わらんべ共」を火あぶりにせよと厳命するあたり、「四郎殿」の分身としての「若衆」たちの跳梁ぶりが彷彿とさせられるな。


 後半は、「天草四郎」の人物像。というか、話が進めば進むほど、存在感が薄くなるのだが。まず、天草四郎の人物像の重要な情報源である、宇土郡郡浦で捕縛された渡辺小左衛門の供述。ここから、天草四郎益田四郎時貞であるという認識が出現している。しかし、本当にそうであったのか怪しいと指摘する。重要情報であるはずなのに、関係書類も扱いが適当。渡辺小左衛門からの手紙作戦の失敗など。本当のところ、渡辺小左衛門はどういう立場の人間だったのだろうか。
 戦場や原城での、「天草四郎」の活動も、曖昧模糊としている。そもそも、「総大将」らしいことをしていないこと。本渡で寺沢勢を破った時も、四郎は指揮をとったとされるが、組織的な指揮が行なわれた形跡がない。また、どう行動したかもよく分からない。原城篭城段階になると、「天守」で神に祈りを捧げるという名目で、一揆の群衆の前には、一切姿をあらわさなかったという。なんというか、中核がぽっかり空虚というか、隠されているというか。そして、それが極限状況の篭城の中で、強力なカリスマを発揮したらしい。落城段階でも、「四郎」の最期はよく分からない。「四郎首」が十人以上差し出されたり、細川家で討取った「天草四郎」もそれが本当にそうだったのか疑わしいという。
 なんというか、幽霊みたいというか、雲を掴むようというか。まあ、人間らしさがないほうが、宗教的カリスマとしては適しているのかね。


 最終章では、実務的な面で、原城篭城軍の指揮者だった有家監物について書かれているが、こちらの方が人間として理解できるな。棄教への後悔と息子を迫害で殺害された怨念。島原藩一揆軍の中核になっていく。最期は板倉重矩に討取られるが、それを見て百姓たちが逆襲に出てくるあたり、慕われた人物ではあるのだろうな。

 本論に入る前に、島原・天草一揆についての私の見方を、前もって簡単に示しておきたい。島原・天草一揆の性格については、百姓一揆的側面を重視する見方や、宗教(キリシタン一揆としての本質を強調する見方など見解は分かれているが、私はそうした択一的な見解には立たない。この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎をおく百姓一揆的な妥協性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬氏。小西氏の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めたある種の「聖戦」であった。p.19

 確かに、近世的な「百姓一揆」とは毛並みが違うよなあ。戦国時代の国一揆一向一揆的な性格が強いような。