- 作者: 吉村豊雄
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2015/04/09
- メディア: 新書
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原城落城の後、「四郎首」が十数人分でているというのも、なんかすごい話だな。
全体の前提として、島原の状況。キリシタン大名であった有馬氏の時代、口之津を中心とする南島原はキリスト教布教の中心地であり、住民のかなりの部分がキリシタンとなっていた。しかし、有馬氏が国替えをされた後に入ってきた松倉氏によって、状況はまったく変わる。松倉家は禁教に奔走すると同時に、ポルトガルに対する身構えた政治体制をとった。領内のキリシタンを転宗させる一方、島原領の入り口である口之津には、「用蔵」を設置し、軍需物資を大量に集積備蓄する。これが、後に一揆勢の軍事力の基盤になる。また、キリシタン弾圧の姿勢は家臣団にも向けられ、二度にわたる家臣の集団離脱が起こり、ここで離脱した牢人の一部が、天草で一揆に向けての策謀を行なったことが指摘される。ここの牢人集団から、「マルコスの予言書」と天草四郎につながる奇蹟譚が現れてくる。また、島原の松倉家中、天草の寺沢家中から、大量の若衆が逃亡する事件が発生し、ここで逃亡した若衆たちが、各地で「四郎殿」の分身、シンボルとして活動することになる。将軍家光が、「わらんべ共」を火あぶりにせよと厳命するあたり、「四郎殿」の分身としての「若衆」たちの跳梁ぶりが彷彿とさせられるな。
後半は、「天草四郎」の人物像。というか、話が進めば進むほど、存在感が薄くなるのだが。まず、天草四郎の人物像の重要な情報源である、宇土郡郡浦で捕縛された渡辺小左衛門の供述。ここから、天草四郎=益田四郎時貞であるという認識が出現している。しかし、本当にそうであったのか怪しいと指摘する。重要情報であるはずなのに、関係書類も扱いが適当。渡辺小左衛門からの手紙作戦の失敗など。本当のところ、渡辺小左衛門はどういう立場の人間だったのだろうか。
戦場や原城での、「天草四郎」の活動も、曖昧模糊としている。そもそも、「総大将」らしいことをしていないこと。本渡で寺沢勢を破った時も、四郎は指揮をとったとされるが、組織的な指揮が行なわれた形跡がない。また、どう行動したかもよく分からない。原城篭城段階になると、「天守」で神に祈りを捧げるという名目で、一揆の群衆の前には、一切姿をあらわさなかったという。なんというか、中核がぽっかり空虚というか、隠されているというか。そして、それが極限状況の篭城の中で、強力なカリスマを発揮したらしい。落城段階でも、「四郎」の最期はよく分からない。「四郎首」が十人以上差し出されたり、細川家で討取った「天草四郎」もそれが本当にそうだったのか疑わしいという。
なんというか、幽霊みたいというか、雲を掴むようというか。まあ、人間らしさがないほうが、宗教的カリスマとしては適しているのかね。
最終章では、実務的な面で、原城篭城軍の指揮者だった有家監物について書かれているが、こちらの方が人間として理解できるな。棄教への後悔と息子を迫害で殺害された怨念。島原藩の一揆軍の中核になっていく。最期は板倉重矩に討取られるが、それを見て百姓たちが逆襲に出てくるあたり、慕われた人物ではあるのだろうな。
本論に入る前に、島原・天草一揆についての私の見方を、前もって簡単に示しておきたい。島原・天草一揆の性格については、百姓一揆的側面を重視する見方や、宗教(キリシタン)一揆としての本質を強調する見方など見解は分かれているが、私はそうした択一的な見解には立たない。この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎をおく百姓一揆的な妥協性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬氏。小西氏の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めたある種の「聖戦」であった。p.19