久保健一郎『戦国大名の兵糧事情』

 うーん。個別事例の話は興味深いが、全体的なストーリー立てが。現物貨幣としての米といったところに切り込めないと、結局、よくわからないことになりそうだが。特に、兵粮を「モノとしての兵粮」と「カネとしての兵粮」に分けた以上は、そのあたりの問題は不可避だと思うのだが。
 「兵粮自弁」というのが、キーワードだが、ここも不徹底のような。結局、戦国時代において、原則は「兵粮自弁」だったように思う。北条や毛利は、大名が巨大化して直轄の軍勢が巨大化しているから、わかりにくいが、足軽衆なんかは「家中」扱いなんじゃないだろうか。それ以前の室町・鎌倉時代においても、従者や郎党なんかの兵糧は、主が出していたのではなかろうか。国衆やある程度以上の大身の家臣は、自前の兵糧を備蓄準備していたらしいことは、国衆の流通統制や各城に独自の蔵を設けていたことからも、ある程度読み取れると思うのだが。朝鮮出兵にしても、侵攻軍を構成した各大名は、基本的に兵糧は自弁なわけで。武士団の構造に踏み込んで議論できなかったことが、限界なのではなかろうか。さらに、問題意識が発展すると、源平合戦南北朝動乱時の、日本全国を駆け巡った軍団は、どのように兵糧を調達していたかも気になってくる。
 一方で、ディテールは非常におもしろい。「カネとしての兵粮」と「モノとしての兵粮」と分けたことで、戦時には現物・食糧としての兵糧が求められ、平時には収益・軍備を整える原資として求められる。中世を通じた文書に現れる「兵粮」文言から、そのような状況が浮き彫りになる。
 北条氏の事例がメインだが、大規模な戦争を遂行する戦国大名は、資金が有り余っていたわけではなく、戦時に備えて潤沢な備蓄を行うことができていたわけではないこと。家臣への給与や援助、兵器の調達整備といった支出には事欠かず、年貢として集めた兵粮は流出していたこと。場合によっては、商人的な家臣から借り入れて、戦時をしのいでいた姿。当然、家臣も困窮し、借金・借財の連鎖が起きている。借財をめぐって、紛争がおき、大名はその場しのぎの対応に追われる。戦闘力を保持するためにも、困窮した家臣を放置しておくことはできない。一方で、平時の年貢徴収や年貢の運用を託す金融業者を潰してしまうわけにはいかない。ジレンマに囚われる姿。
 あとは、戦場では、文字通りお荷物の兵糧。輸送には、人手が必要。境目の城に、兵粮を送り込むには、人歩を出す周囲の村々との必要だった。また、兵糧の輸送は、大規模になるため、敵の妨害を受けやすく、戦闘の焦点になりやすかった。逆に、そういう難しい作業だからこそ、「兵粮を込める」という活動が、同盟者に対する「合力」の代表になりえたのだろうな。


 そもそも、「飢餓の戦国」というイメージがいまいち、具体的にならないんだよな。特に北条氏領国や武田氏領国あたりでは。百姓経営が、戦国時代あたりまでは世代をつなぐものになっていなかったあたり、確かに一般の平民も「困窮」していた可能性はあるが。一方で、共同で逃散したり、したたかに大名と交渉する連中でもある。近世にいたっても、恣意的に取れるものではなく、交渉で決まるものだった以上、「年貢減免」の嘆願の文書を額面どおりに受け取るのも危ういと思うのだが。正直、どうだったのだろうか。
 単純に大名や武士が「困窮」しているからといって、あっさりと負担の転嫁を受け入れるものだろうか。北条氏あたりが、「国」や「公」というイメージを押し出しても、生存が難しくなるほどの統治だったら、別の勢力にすげ替えるのも、ありだっただろうし。在地の経済まで踏み込まないと、このあたりの話ははっきりとしないのではなかろうか。
 負けた勢力の領国が略奪されたり、難民になったり、荒れ果てるのは確かなんだろうけど。