黒田基樹『戦国大名:政策・統治・戦争』

新書713戦国大名 (平凡社新書)

新書713戦国大名 (平凡社新書)

 戦国大名に関して、現在の研究段階をまとめた本。史料の残り具合から、ある程度仕方ないとはいえ、北条家に集中しすぎなんじゃなかろうか。あと、これも、微妙に読みにくいところが。新書にしては時間がかかった。
 戦国大名が「自己の力量」によって、上位に権力を持たなかったこと。その領国が、権力集団としての「家中」と社会的基盤としての「村」に依存して存立していたこと。村どうしの紛争、そしてそこから派生する国衆や家臣どうしの戦争を抑止し、領国内を平和領域としていた支配構造。このあたりは、藤木久志以降の、紛争解決や村落論の流れに棹を差した議論だな。戦国大名と近世大名の継続性を強調した議論も興味深い。一方で、この時代、「村」が不安定で、場合によっては在村被官として武士化したり、領域が変化したり、近世のような確固とした枠組みができあがっていたわけではないことも指摘される。
 全体としては家臣団の構造、税制、交通や流通政策、徴税や裁判などの行政、国衆との関係、他の大名との戦争のあり方などが通観される。序章に概論、終章が近世への展望という構成。ディテールも興味深いな。大名が危機的状況にあるとき、紛争の仲裁基準を明確化し、支持を確保しようとしたのが分国法であるとか。大名と国衆の相互依存関係とか。大名どうしの戦争がどのような契機で始まるか。面子が戦争の重要な要件というのがアレだ。あと、前線地域では村の武力を地域防衛に動員し、兵員や防御施設が要求されたこと。後方地域でも、地域内の城の警備など地域防衛に限り、非常時の動員が行われ得たと。
 一方で、繰り返し強調される「慢性的な飢饉状況」というのが、いまいちわからないんだよな。


 以下、メモ:

 こうした状況の結果、戦国大名の領国が、平和領域の単位になるという状況が生み出されることになった。そしてそこでの平和は、家来や村について、中世における自力救済のキーワードである「相当」(同量報復)・「兵具」(武装)・「合力」(援軍)の禁止によって形成・維持された。戦国大名は領国内において平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。p.23

 自力救済の抑止による平和領域の創出。

 とくに注目されるのは、その村で百姓として三〇年弱続いていた、ということがいわれていることである。逆にいえばそれだけ続いている百姓は珍しかったことになる。戦国時代においてはそれだけ百姓家の存続は困難な状況にあったのであろう。百姓数の減少は、作付け面積の減少、ひいては年貢・公事の減少をもたらしたから、領主側も未進があったからといって、簡単には改易することができない事情があったのである。p.92

 この時代、百姓経営を一世代継続するのも難しかったのか。まあ、この時代の百姓経営がどのような規模であったのかもよく分からないのだが。近世に核家族化が進展するそうだから、この時代には下人を抱えたそれなりの規模の経営だったのだろうか。

 またこの規制の実現は、領国境目の村に通達していることから、村を単位に行われたのであった。通行規制は、関所などの役所におけるものにとどまらなかったのである。そうするとその前提には、村による独自の通行規制があったことが分かる。街道が村のなかを通っている場合、村には村境に木戸などの施設を設け、夜間などは木戸を閉じて通行を遮断していた。したがってこのような大名・国衆の通行規制は、そうした村の力量に依拠したものであったとみることができる。p.119

 メモ。村による通行の規制。

 しかし同七年、「世間」すなわち市場では、売買において通用する銭貨は精銭のみとなってしまった。地悪銭や悪銭は、貨幣として流通しなくなってしまったのである。そこでは納入銭に地悪銭の混合を容認する意味がなくなったため、これをうけて納入銭については精銭限定に戻している。しかし、それでは精銭不足のなかで未進が増大するだけであるため、精銭調達ができない場合の代替措置として、現物納を認めるにいたる(戦北八六三)。
    (中略)
 ちょうど同じ時期、畿内近国では取引基準表示について貫高から石高への転換が起きている。富の表示基準そのものが、銭貨から穀物に転換したのである。そして同じように、現物納が展開していった。これが江戸時代における石高制、現物納へと続いていくことになる。現物納の採用にともなって、基準高と現物との換算数値の規定が必要になる。北条氏もその規定を毎年定めるようになっており。それを「納法」と称していた。事情は江戸時代でも同様であった。こんことからも、石高制が決して戦国時代における納入制度と異質なものであったわけではなかったことがわかる。p.132-3

 中世末期の貨幣不足。そのなかで、税の納入が銭貨から現物へと変っていったと。

 これらに共通するのは、損なわれた名誉の回復、という事態であろう。敵対大名から領国内へ侵攻をうけ、そこで敵兵によって領国住人の財産が掠奪されてしまったこと、従属していた国衆が離叛したこと、というのはすべて名誉を損なうものであった。損なわれた名誉は回復しないと、「頼もしからず」というレッテルが貼られた。戦国大名の権力構造は、重層的な「頼み」構造にあり、大名家はその頂点に位置しただけに、その名誉損害をそのまま放置しておくことは、他の国衆も相次いで離叛したり、重臣たちも離叛したり、あるいはクーデターによる当主交替などの事態が生じるなど、大名家そのものの崩壊をもたらしかねなかった。だから反撃や報復のための攻撃を行い、それによって損なわれた名誉の回復にあたる必要があったのであろう。p.201

 国家の基礎に「名誉」があったと。「頼み」の構造ってのがおもしろいな。