宇佐美昇三『信濃丸の知られざる生涯』

信濃丸の知られざる生涯―明治から昭和を生き抜いた船

信濃丸の知られざる生涯―明治から昭和を生き抜いた船

 日本海海戦に先立って、バルチック艦隊の所在を発見したことで、歴史に名を残す信濃丸の生涯を追いかけた本。いや、本当に波乱万丈の半世紀の生涯。1900年に、シアトル航路のオーシャンライナーとして建造された船が、日露戦争では仮装巡洋艦として動員され、10年までのシアトル航路、その後の日台航路を経て、1930年代には北洋漁業の人員移送から鮭鱒工船に。戦時中を辛くも生き抜き、引揚げ船を勤めた後は、朝鮮戦争に関わって、終焉。新聞記事をはじめ、さまざまな情報を丹念に集めて、生涯を再構成している。ディテールが興味深い。
 もとは、雑誌に連載された記事を再構成したもののようだ。


 やはり、日露戦争のところが、興味深い。三笠の要員輸送をはじめ、戦争の準備段階から関わりがあり、戦争序盤では遼東半島に展開する日本軍の輸送も行っている。田山花袋の『第二軍従征日記』には、九箇所で言及されているとか。
 当然、バルチック艦隊を最初に発見した日本海海戦にも言及されている。当時、少尉だった角恒吉が書いた記事から、公刊戦史とは違う発見時の動向が紹介される。連日の臨検に疲れていて、当直に立つ資格のない角氏が当直に立っていたとか。病院船アリョールを日本の民間船と思い込んでいたとか。離脱時に軍艦旗を降ろしていたとか。アリョールを臨検していたら、撃沈されていた可能性が高いから、怪我の功名もあると。正直に書くわけには行かないから、適当に辻褄を合わせた報告書を送ったら、それが有名になったとか。なかなかおもしろい。


 ちらちらと、生涯を通じて、笠戸丸とすれ違っているのがおもしろいな。
 ロシアの輸送船カザンが、旅順で捕獲されて笠戸丸に。日台航路でライバルになったり、北洋漁業でどちらも工船になったり。終戦直前、カムチャッカに海産物を回収に行く特攻船団に両船とも含まれるが、小樽空襲で信濃丸は、破損して、九死に一生を得る。小樽空襲で沈まなかったのも幸運がら、それでカムチャッカに行かなくて済んだのも幸運だな。笠戸丸は、他の一隻の船とともに、カムチャッカへ行って、ソ連軍機に撃沈。


 戦後は、主に朝鮮・満州方面からの引き揚げ輸送に従事。その後は、朝鮮戦争で米軍の軍事輸送に従事。日本は、相当深く朝鮮戦争に関わっているのだな。前線への兵力・物資の輸送に、大量の日本船が動員されていた。しかも、割と危険な最前線近くまで行っている。
 仁川上陸でも、日本人船員が米軍の揚陸艦に大量に配置されていたり、元山の荷揚げに日本人作業員が行っていたり。朝鮮戦争の軍需物資も、日本で調達されたものが多い。トラック、銃砲弾、食品産業による各種食料品など。そりゃ、特需に沸くわけだ。つーか、米軍、日本製トラックを使っていたのか。なんで、本国で調達しなかったのだろう。
 最後は、1951年にスクラップとして、売船。姿を消す。日本郵船のオーシャンライナーというと、戦争と切っても切れない関係になるのかねえ。