郵船OB氷川丸研究会編『氷川丸とその時代』

氷川丸とその時代

氷川丸とその時代

 商船関係の本、三冊目。
 今回は氷川丸。なんというか、エリートな船という感じの生涯を送った船だな。定期客船だと、それほど特筆に値する事件もあまりないためか、むしろ日本郵船の太平洋横断航路全般の概史といった風情。サンフランシスコ航路を往復した浅間丸クラスもよく出てくる。浅間丸級や氷川丸の同形船が比較的早い時期に沈んでいることを考えると、やはり氷川丸は病院船だったからこそ、戦後まで生き残ることができたのだなと感じる。三度の触雷を始め、決して安全だったとはいえないにしろ。様々な人の証言やおそらくは郵船の内部資料を使ったのだろう、氷川丸の航海中の食事やイベントのプログラム、あるいは開戦直前の緊迫した動きなどが興味深い。復員船としての運航にページが割かれているのもおもしろい。惜しむらくは、戦後の定期客船時代が少ないことか。
 しかしまあ、太平洋の最北端近くを航行するために頑丈に作ったそうだが、三度機雷の爆発を受けて、それでも自力で帰ってきたいるあたり、すごいな。あとはガダルカナルから撤退してきた部隊の惨状とか、アメリカの潜水艦に追尾された話とか。


 以下、メモ:

 当時の日本は、製鉄など造船関連産業が未成熟のため、機械類のほか、外板用の鋼材もイギリスからの輸入に頼っていたが、「氷川丸」は冬の北太平洋の荒波に耐えられるように、通常よりも厚い18.3ミリ以上の外板を使用した。さらに、船首部分の内部構造には、荒天時の強い波浪の衝撃を想定し、特別の水平桁による補強が施された。p.28

 氷川丸はずいぶんと頑丈な船だったようだ。だからこそ、三度の触雷に耐えたんだろうな。

 氷川丸の建造には鋼板・鋼材などの材料、機関や機器など、92パーセントを輸入して建造された。従来は揚錨機、揚貨機、キャプスタンなどの甲板機械は蒸気を動力源とした機器が一般的だったが、騒音や振動が激しく、油の飛散もあり、貨客船には不向きだった。氷川丸では、これらすべてに当時最先端の英国製直流電動モーターを動力とするワードレオナード制御方式の電動甲板機器を採用し、電力をまかなうディーゼル発電機は主機関と同じくデンマークのB&W社製四サイクル450馬力3基を搭載した。振動と騒音が少ないので乗客には大好評だった。従来は蒸気を動力としていたポンプ類もすべて電動とした。p.54

 しかしまあ、1930年の時点での輸入部品の比率がこの高さとは。まあ、ディーゼル主機に、各種機器も電動となると、輸入比率が高くなるんだろうけど。

 郵船のスチュワードの回想記によれば、下船中にはこれら芝居をはじめいろいろな芸の習い事に励み、船内演芸会では芸達者な者が自前で衣装を用意して上演したとある。客船のスチュワードは洗練された技能や英会話はもとより、プラス・アルファとしてなんらかの芸も必要だったのである。p.116

 演劇やら楽器の演奏やら、手品やら、いろいろな演目が紹介されている。なかなか大変だったんだな。

「1941(昭和16)年7月20日陸軍に徴用された甲谷陀丸は、大阪から釜山などへの兵員輸送に従事したあと8月下旬から宇品、上海、南京、撫湖、安慶、大治、漢口などへ将兵や軍馬、軍犬などの輸送に従事し9月末に宇品に戻り長期待機に入った。そのとき宇品にはすでに数十隻の徴用船が停泊しており、その数は日ごとに増えていった。11月になると郵船の船だけでも、三池、榛名、香取、鹿島、賀茂、安洋、銀洋、笹子、佐倉、相模、那須竜野敦賀、でらごあ、高岡、対馬豊橋、松江、津山、横浜、彼南、徳島、鳥取、ぜのあ、盛岡、そして甲谷陀丸と30隻近い船が待機となって停泊し、船団航行や防火・避難訓練などが毎日行われるようになったが、11月半ばを過ぎると兵員輸送などに次々と姿を消していった」p.188

 開戦前夜の宇品。これらの船がどこに行ったかを調べるとおもしろいだろうな。

 その後、博愛丸と弘済丸の両船は、1914(大正3)年、第一次世界大戦・青島の役にも赤十字病院船として2800余名の傷病兵を輸送し、また関東大震災の際には避難民の輸送などで活躍したが、1926(大正15)年に両船とも漁業会社に売却されて蟹工船となり、博愛丸は1945(昭和20)年6月8日オホーツクの海で米潜水艦の攻撃を受けて沈没。弘済丸もまた開戦の翌年、1942(昭和17)年8月、青森県白浜沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。そのときの船名は美福丸となっていた。p.219

 北洋の工船にはけっこう有名どころの船が集まっているなあ。信濃丸、笠戸丸、博愛丸、弘済丸と、それなりに商船史に名を残す船が余生を過ごしている。大きくて安い船となると、そうなるのかもしれないが。