秋山哲雄『都市鎌倉の中世史:吾妻鏡の舞台と主役たち』

 鎌倉時代の鎌倉を、吾妻鏡と考古学的発掘の成果を中心に、復元していく。
 必ずしも計画的に作られた都市ではない。少なくとも、若宮大路は都市基軸ではなかった。あるいは、普通の御家人はどこに住んでいたのか。などなど、今までのイメージを変える話がいくつも出てきて、おもしろい。


 全体的構成は、小さなピースを組み合わせて、最後に全体を組み立てる。
 最初は、御家人たちがどこに住んでいたのか。ごく一部の有力者を除けば、宇都宮氏のような有力氏族であっても、本拠地に主に住んでいて、儀礼やそれに奉仕するときだけ宿泊する拠点に代理人を置いているだけだった。小さなところでは、その代理人も置けなかった。
 で、たまに鎌倉に出てくると、人を集めて宴会を開く。で、場合によっては、鎌倉常駐の下級役人が押しかけてきて、宴会を強要することもあったとか。あとは、普段は不在の鎌倉の屋敷、空き部屋を人に貸していたが、身内が来ると賃料を取れないので、泊めないとか。一族の結束とは…
 一族で、本拠地に常駐して治める、従って吾妻鏡に登場しない人物と、主に鎌倉にいて幕府の活動などに参加、吾妻鏡に登場する機会の多い人物と、分業化していたというのも興味深い。そして、鎌倉で活動する庶子たちが、鎌倉に住んで権力を振るう北条氏などの上層御家人の被官となっていく。


 二番目は北条氏の屋敷の比定。
 吾妻鏡を子細に読み、お寺や伝承、発掘成果と突き合わせると、北条氏の邸宅の位置は、だいたい推測できる。鎌倉の地理そのものには疎いので、細かいところは言及しないけど、隣接した宝戒寺小町亭と若宮大路小町亭、もともとは若宮大路小町亭が嫡流の屋敷だったのが、入れ替わって、北条氏滅亡の時には宝戒寺小町亭が得宗亭となっているのが興味深い。
 あるいは、屋敷継承の状況から見ると、執権・得宗の「嫡流」が必ずしも円滑に継承できていなかったというのが、興味深い。だいたい、得宗家、若死が多いから、見かけの権力と実際に振るえる力にけっこう乖離が大きいのだろうな。末期には、御内人に壟断されるわけで。
 あとは、庶流諸家が郊外に拠点を構え、その拠点の地名で呼ばれるようになる状況とか。


 続いては、鎌倉にお寺が多い理由。
 北条氏の有力者は、父親の屋敷の跡に、その供養のために寺院を設立することが多かった。このため、北条氏に庇護される寺院が増殖していく。さらに、鎌倉の四周、北西山内の円覚寺、南西の極楽寺、東六浦道の大慈寺といった境界の寺院。源義朝を弔う勝長寿院、源平騒乱の犠牲者たちを弔う永福寺鎌倉幕府の政治抗争で滅びた有力御家人を鎮魂する寺院といった鎮魂のための寺院。これらが相まって、叢生していった。
 これらの寺院は、都市鎌倉の地主であり、境内の周辺部は、鎌倉の拠点を維持する武士たちや土地を入手できない商人・職人などの庶民層が、土地を借りて住んでいた。吾妻鏡や境内絵図といった史料をもとに、どのような人々が土地を借りていたかが復元できる。さらに、寺院に奉仕する人々が、土地をかす権利を与えられ、又貸ししていた状況。


 最後は、それらを踏まえての都市鎌倉の姿。
 鎌倉時代武力行使までに至った政治抗争を検討すると、鎌倉外部から戦力を導入している事例が多く、鎌倉の都市内に武装した人々が闊歩するような景観はなかった。さらに、都市への部隊の進入も素通しで、城塞都市とはとても言えない。
 メインストリートはむしろ六浦道。北条氏が将軍権力を抱え込もうと拠点を動かす内に、若宮大路のほうに動いていった。若宮大路は、都市の基軸にはなっていない。13世紀半ばに、側溝の排水路整備などの過程で、その周囲だけ、若宮大路を基軸に整備された。また、大路は、一般人も普通に行き交うメインストリートであった。
 また、武家政権の中枢であり、紛争解決には、より効果的な裁許を行うことができたため、裁判を目的に多くの人が集まるようになった。また、年貢として物資が集まる流通の中心地、さらに、幕府の保護を求め、有力寺院が叢生する宗教的求心力などで、多くの人が集まる場であった。禅寺では、中国の言葉も使われるバイリンガルな場であった。
 政治的中心として、多くの人を引きつける場が、鎌倉時代の鎌倉だった、と。

 「武士の都」ともいわれる鎌倉には、三方を山に囲まれ前面に海が広がる城塞的な都市であるというイメージがこれまでに定着している。しかし、これもまた誤解である。鎌倉は「武士の都」であるという印象が先行しているため、いつ戦闘が起こってもいいように防御施設が各所に設けられていたと思われがちだが、決してそんなことはない。鎌倉幕府滅亡の際の戦闘も、北条時行足利直義から鎌倉を奪還した中先代の乱の戦闘も、時行から鎌倉を再奪還した足利尊氏の鎌倉入りも、数日で勝負がついている。鎌倉が攻めにくく守りやすい土地ならば、これほど次々に簡単に陥落することはあるまい。p.5-7

 従来の鎌倉のイメージは、四方八方に防衛施設が設けられているような城塞的都市という要素が強かった。そうした面がまったくないとはいわない。しかし、先述の山内と同様に、極楽寺周辺も宗教的な要素の方が強い。もし鎌倉が、攻めにくくて守りやすい天然の要塞だったならば、戦国時代に鎌倉にこもる大名がいなかったことには違和感を覚える。鎌倉時代においても、鎌倉を戦場にした和田合戦や宝治合戦霜月騒動などは、いずれも鎌倉の市街戦であり、天然の要塞という言葉にふさわしいような合戦は見られない。宝治合戦の折に三浦氏が切通や切岸で苦戦したという話も聞かない。鎌倉には陸路での入り口が少ないので、一点突破されれば逆に市街地を先に制圧されてしまうという危険性の方が高いだろう。鎌倉幕府は本来的に軍事政権ではあるが、だからといって鎌倉という都市が城塞的である必要はあるまい。p.117-8

 そう言われればそうだなあ。数日で落ちるようでは、難攻不落とは言えない。
 城塞都市として構想されているなら、周囲の山に城が作られているだろうし。というか、地勢的に、入り口が少ないけど、防衛線を形成して守ると考えると逆に三方に人を配置しないと行けなくなるから、守りにくそうではある。城作るなら、二辺くらいしか、外に接しない土地にしたいわなあ。