本日は9月23日の写真を整理。東バイパスの南方面の諸神社にある石碑を判読。出来ていないのも多いけど…
雷が鳴り出したので、ここまで。
江津神社の石造物
東バイパスに南、少し入り組んだところにある神社。いかにも湧水が豊富な場所といった感じで、手水鉢へは井戸からの水がかけ流されている。
「皇紀二千六百年記念」碑
まあ、見ての通りのもの。この手のものはどこにでもあるなあ。台座に「江津氏子中」、裏面に「昭和十五年二月設立」と刻んである。
「戦没者慰霊碑」
東バイパスの南で良く見かける。石碑のスタイルもほぼ類似しているし、設置時期も同じくらいのようだ。戦没地がブーゲンビル、フィリピン、満州、シベリアってのが、熊本の師団が配置された場所を見事になぞっているな。第六師団がブーゲンビルに、第二十三師団が満州からフィリピンへと。あと、意外と年齢層が高い印象が。
正面
裏面
此の戦没者慰霊碑は郷備
の為に護り継がれて来た
共有地の資金の一部をも
って農区民の総意のもとに
建設された事を銘記します
建設委員
昭和六十一年十一月
台座
丸山大三 昭和十四年八月三十日 陸軍病院 二十五才
宮津秀次 仝 十七年四月廿九日 ニュウビリテン 三十才
春日祐次 仝 十八年八月十八日 サイパン 三十五才
内藤秋雄 仝 十九年三月廿四日 ソロモン諸島 三十七才
丸山茂 仝 十九年五月廿五日 ブーゲンビル 二十五才
宮津静雄 仝 十九年十月十九日 マニラ 二十七才
北岡利雄 仝 十九年十月廿一日 ブーゲンビル 二十六才
須崎寿人 仝 十九年六月十一日 ブーゲンビル 二十一才
岡本重義 仝 二十年三月廿一日 本州南方 三十五才
丸山鶴男 仝 二十年五月廿九日 ブーゲンビル 三十四才
三村進 仝 二十年七月六日 比島ミンダナオ 四十二才
萩野利光 仝 二十年八月廿八日 ハバロフスク 三十四才
江藤文助 仝 二十年十一月十日 満州吉林 二十才
下江津菅原神社の石造物
下江津集落の北端近くにある神社。訪れた日は秋祭りの準備で舞台が設置されていた。
「戦没者慰霊碑」
この神社にも同じく慰霊碑が。文章の配置はだいぶ違うが、外形は類似。裏面の発起人は略。
台座
明治以降国運の進○と
郷土下江津繁栄のため
異郷の地にはた亦○海
の涯に献身散華された
各位に区民一同崇○の
敬意を表し此の処に壱
碑を祀り霊安らけと鎮
まり座せと祈念致しま
す
昭和六十年十二月十三日
下江津区民一同
下無田神社の石造物
江津湖から加勢川沿いに南下して。この集落は加藤清正の時代に開発された集落らしい。「無田」って地名の時点でそれはある程度わかる話。あと、なんか皇室イベント関連の石碑が多い。
石灯籠
「関東関西四国参拝記念」と彫られた石灯籠。四人で行っているところを見ると、なんか講でもあったのだろうか。昭和12年って時期も、また微妙な時期だな。
関東関西四国参拝記念
昭和十二年三月吉日
宮田己熊 宮田キト
下山キツ 田中スエ
「下無田神社落成記念碑」
これは平成になってからのもの。台風被害からの復旧の記念碑とのこと。昭和期にも台風被害を受けているようだな。
表面
下無田神社落成記念碑
平成五年十月吉日
裏面
平成三年九月の再度の台風にて神社樹木等の
被害甚しく、直ちに氏子総会を開き、神社再建
並びに上・下両区の共有金よりの均等醵出を
議決する。翌四年一月十六日、安全を祈願し
起工式を執り行う。直ちに解体樹木整理盛土建築等の
工事過程を経て、九月二十四日上棟式十一月末日
神拝殿の建立完成をみる。翌五年外柵、玉垣
参道その他の諸工事を経て、十月完成に至る。
本日落成式にあたり関係各位の献身的なる御協力尽力
を感謝し工事の完成を祝福するものである。
平成五年十月吉日
下無田神社総代
氏子一同
記
町内共有金 上区 壱阡五百万圓
下区 壱阡五百万圓中の瀬
寄附熊本ホテル様 壱百万円
加川電気
寄進加川博久 電気設備一式
奉納玉垣三四二本 氏子一同
神社建設工事
(株)黄檗建設
代表 黄檗賢二
玉垣工事
(有)桑鶴石材工業
代表 桑鶴政幸
重富菅原神社の石造物
田井島とか、重富、所島って、熊本市内の集落の中でも古くから出てくる集落なんだよな。古代の文献にもそれらしい名前が出てくるとか。重富も、荘園の「名」の名前っぽい。なんかいわくありげな石造物がいくつか。
「慰霊碑」
ここにも戦没者の慰霊碑があり。昭和60年あたりに競って建てたような感じが。裏面に戦没者名簿があるが、反射が酷くて読みにくいので省略。他の人名も例によって省略。しかし、ここでもブーゲンビルとフィリピンでの戦没者が多いな。
台座
建立の記
昭和二十年八月十五日終戦の昭
勅を拝し爾来四十有余年国民の
困窮耐乏の努力の結晶が今や世
界の経済大国にまで発展するに
至った。然しその陰に全国で二百
五十万我が重富で二十有余名の
若い命が犠牲になったことを同
じ町民として忘れることは出来
ない茲に戦友同志相計り町民一
同に呼びかけ菅原神社の庭に慰
霊の碑を建立し永久に敬仰の場
として恒久の平和を乞い願う遺
芳千秋○えられんことを。
所島神社の石造物
こちらも由緒ありげな神社。お祭りの準備中だったので遠慮しながら撮影。
「慰霊碑」
境内の西端にあり、さらにそこからは水田が広がっているので非常に目立つ。こちらは時間が下って平成七年。しかし、こういうところにも空爆の被害があるのか。例によって、発起人等の関係者は略。
正面
慰霊碑
所島戦没者氏名
島本鶴喜 昭和十二年十月六日 南支 四十一才
江島善士郎 〃 十八年十月二十日 西南太平洋 二十八才
江島 博 〃 十九年一月二十七日 名古屋陸病 二十七才
江島 正 〃 十九年二月六日 南洋群島 三十才
西嶋治行 〃 十九年二月十日 台湾東方 二十九才
江島末年 〃 十九年六月三日 ブーゲンビル 三十三才
山内 實 〃 十九年十月三日 西南太平洋 二十三才
江島政行 〃 十九年十一月十五日 五島列島 三十一才
宮本憲雄 〃 十九年十二月四日 奉天陸病 二十一才
江島 勇 〃 十九年十二月十九日 台湾東方 二十一才
古賀 實 〃 二十年四月十三日 ルソン島 四十三才
西島仁之 〃 二十年五月十九日 台湾 三十九才
嶋村文雄 〃 二十年六月四日 南方海上 二十四才
島村 正 〃 二十年七月六日 ルソン島 三十才
西島親治 〃 二十年七月十二日 比島 二十九才
西島武男 〃 二十年七月三十日 比島 三十七才
島本友人 〃 二十年八月一日 ルソン島 二十三才
松山光成 〃 二十年八月七日 河北省 二十二才
島本 弘 〃 二十年八月二十日 湖南省 三十才
江島七平 日露戦争
嶋本フミ 昭和二十年八月一日 空爆死 五十一才
島本松恵 〃 二十年八月一日 〃 四十五才
島本ヤツエ 〃 二十年八月一日 〃 六才
台座
建立の記
明治以来国運を賭けた数次の戦役殊に昭和に
於ける太平洋戦争に際して未開の大陸南溟の
孤島あるいは波濤万里の南海洋上に身を挺して
勇戦敢闘国家の安寧と郷党の繁栄隆昌を
念じつつも壮烈散華された英霊に対し町民一同
恭しく景仰の念と奉謝の誠を捧げ茲に一碑を
建立し慰霊の微衷を表します。
平成七年十二月吉日