江津神社の石造物

 東バイパスに南、少し入り組んだところにある神社。いかにも湧水が豊富な場所といった感じで、手水鉢へは井戸からの水がかけ流されている。




皇紀二千六百年記念」碑

 まあ、見ての通りのもの。この手のものはどこにでもあるなあ。台座に「江津氏子中」、裏面に「昭和十五年二月設立」と刻んである。


戦没者慰霊碑」

 東バイパスの南で良く見かける。石碑のスタイルもほぼ類似しているし、設置時期も同じくらいのようだ。戦没地がブーゲンビル、フィリピン、満州、シベリアってのが、熊本の師団が配置された場所を見事になぞっているな。第六師団がブーゲンビルに、第二十三師団が満州からフィリピンへと。あと、意外と年齢層が高い印象が。



正面

戦没者慰霊碑
   熊本市長星子敏雄書



裏面

此の戦没者慰霊碑は郷備
の為に護り継がれて来た
共有地の資金の一部をも
って農区民の総意のもとに
建設された事を銘記します
      建設委員
昭和六十一年十一月



台座

丸山大三 昭和十四年八月三十日 陸軍病院 二十五才
宮津秀次 仝 十七年四月廿九日 ニュウビリテン 三十才
春日祐次 仝 十八年八月十八日 サイパン 三十五才
内藤秋雄 仝 十九年三月廿四日 ソロモン諸島 三十七才
丸山茂  仝 十九年五月廿五日 ブーゲンビル 二十五才
宮津静雄 仝 十九年十月十九日 マニラ 二十七才
北岡利雄 仝 十九年十月廿一日 ブーゲンビル 二十六才
須崎寿人 仝 十九年六月十一日 ブーゲンビル 二十一才
岡本重義 仝 二十年三月廿一日 本州南方 三十五才
丸山鶴男 仝 二十年五月廿九日 ブーゲンビル 三十四才
三村進  仝 二十年七月六日  比島ミンダナオ 四十二才
萩野利光 仝 二十年八月廿八日 ハバロフスク 三十四才
江藤文助 仝 二十年十一月十日 満州吉林 二十才

下江津菅原神社の石造物

 下江津集落の北端近くにある神社。訪れた日は秋祭りの準備で舞台が設置されていた。



戦没者慰霊碑」

 この神社にも同じく慰霊碑が。文章の配置はだいぶ違うが、外形は類似。裏面の発起人は略。



台座

明治以降国運の進○と
郷土下江津繁栄のため
異郷の地にはた亦○海
の涯に献身散華された
各位に区民一同崇○の
敬意を表し此の処に壱
碑を祀り霊安らけと鎮
まり座せと祈念致しま

 昭和六十年十二月十三日
    下江津区民一同

下江津松尾神社の石造物

 下江津集落の中心部にある神社。ここは社殿が非常におもしろい。あと、ずいぶん久しぶりに来たんだけど、住宅がずいぶん建て替わってかつての風情は全然ないな。







支那事変皇師○捷記念碑」

 日中戦争緒戦の頃の戦勝記念碑らしい。消防団による設置なのだが、逆光や篆刻文字などの悪条件でいろいろと読めていない。人名は多数なので略。

下無田神社の石造物

 江津湖から加勢川沿いに南下して。この集落は加藤清正の時代に開発された集落らしい。「無田」って地名の時点でそれはある程度わかる話。あと、なんか皇室イベント関連の石碑が多い。



石灯籠

 「関東関西四国参拝記念」と彫られた石灯籠。四人で行っているところを見ると、なんか講でもあったのだろうか。昭和12年って時期も、また微妙な時期だな。


関東関西四国参拝記念

昭和十二年三月吉日
  宮田己熊 宮田キト
  下山キツ 田中スエ


「奉改築記念燈」

 これも石灯籠。こちらは社殿か何かの改築記念。

昭和十一年四月吉日
   下無田氏子中


「下無田神社落成記念碑」

 これは平成になってからのもの。台風被害からの復旧の記念碑とのこと。昭和期にも台風被害を受けているようだな。



表面

下無田神社落成記念碑
   平成五年十月吉日



裏面

平成三年九月の再度の台風にて神社樹木等の
被害甚しく、直ちに氏子総会を開き、神社再建
並びに上・下両区の共有金よりの均等醵出を
議決する。翌四年一月十六日、安全を祈願し
起工式を執り行う。直ちに解体樹木整理盛土建築等の
工事過程を経て、九月二十四日上棟式十一月末日
神拝殿の建立完成をみる。翌五年外柵、玉垣
参道その他の諸工事を経て、十月完成に至る。
本日落成式にあたり関係各位の献身的なる御協力尽力
を感謝し工事の完成を祝福するものである。
   平成五年十月吉日
       下無田神社総代
         氏子一同


   記
町内共有金 上区 壱阡五百万圓
      下区 壱阡五百万圓

  中の瀬
寄附熊本ホテル様 壱百万円
  加川電気
寄進加川博久 電気設備一式
奉納玉垣三四二本 氏子一同
  神社建設工事
  (株)黄檗建設
    代表 黄檗賢二
  玉垣工事
  (有)桑鶴石材工業
    代表 桑鶴政幸


玉垣建設記念碑」

 明治期に整備されたときの記念碑。玉垣は後で一新されて、記念碑だけが残してあるようだ。

玉垣建設記念碑 下無田
        氏子中

明治四拾参年拾月拾七日建設


「御大礼紀念」碑
 鳥居の右手少し入ったところにある一群の石碑の一つ。昭和天皇の即位儀礼記念の石碑。題字を書いた陸軍中将の名前が読み取れない。なんか変わった字の人なのだが。


   昭和三年十一月十日
御大礼記
   陸軍中将正四位勲二等助二級○○○○○書


「御即位紀念樹」碑

 こちらは大正のもの。「大正四年十一月十日」の年紀あり。


「御大典紀念樹」碑

 こちらは年紀が入っていないので、よく分からない。

良間神社の石造物

 旧浜線沿いにある神社。公園や公民館と同居している。広さの割に石造物はあまり見当たらない感じ。



玉垣新設記念碑

 鳥居、玉垣狛犬以外ではこれくらいか。



表面

   記念碑
  玉垣新設工事
昭和四十一年十月吉日



裏面

参道寄付
 県議会議員
    井上睦朗
宮総代
  米森寅雄
  中村一
  宮本次男
施工者
 熊本市南熊本駅
 贈 近藤石材店

笛田神社の石造物

 割と大きな神社。こんもりとしげった木々と夕方という時間もあって、結構薄暗かった。



門柱?

 門柱らしきもの。隈庄の人が小学校の基礎を請け負ったってのが興味深いな。


   昭和十三年六月
奉納  隈庄町土木請負業志垣続
     奉御幸小学校基礎請負工事竣成


天女の笛

 長崎の平和祈念像を制作した北村西望作の銅像



台座裏面

平成十二年十月吉日


奉納者 宮司坂本充
    祢宜坂本龍一
世話人 責任役員 渡辺末春
         清田富広
    株式会社 創和
    社長   澤井俊光


「合併祭神元鎮座地名」碑

 合祀された際に、元の地名を刻んだ碑。明治の神社合祀政策の犠牲者。


合併祭神元鎮座地名           神職 坂本○○
龍神 禰宜森 明治二十三年十二月合祀 世話人 (以下略)
水神森 伊賀神
    荒神


奉納兵器目録碑

 大正12年軍縮によって余剰になった兵器を展示目的で払い下げられたらしい。大戦中の金属供出か、戦後の占領政策で撤去されたんだろう。



表面

○○兵器 一、保式短五糎砲 一門
 目録  一、露式二十五糎砲弾 二個
     一、四十五糎魚形水雷 一個



左面

社掌   坂本正人
氏子総代 志垣繁雄
仝    清田酉彦
仝    木下仙太郎



右面

軍縮ノ結果佐世保海軍鎮守府
ヨリ無償下付セラレシモノナリ
  大正十二年五月二日

[日記][石碑]田井島神社の石造物

 東バイパスのすぐ南にある神社。ここも、あまり石造物は見当たらない。



「しゅん工記念碑」

 「平成十二年八月吉日」とある。社殿の新築でもあったのだろう。



台座

田井島天満宮 由緒
菅原道真公が太宰府で逝去され
全国に災いが急に増えて国の
政治も危機に迫り、国の要を担う
人等がこの災いは菅原道真公の
怨霊のせいだと考え菅原道真公を
神として、太宰府と京都に祀り
供養したところ、国中の災いは
無くなったと言われここの地区
(田井島)にも災いが来ないように
との考えから菅原道真公を
この地区の守り神としてこの地に
祀ったものである。

重富菅原神社の石造物

 田井島とか、重富、所島って、熊本市内の集落の中でも古くから出てくる集落なんだよな。古代の文献にもそれらしい名前が出てくるとか。重富も、荘園の「名」の名前っぽい。なんかいわくありげな石造物がいくつか。


石造物

 何かよく分からないけど、近世にはさかのぼりそうなもの。こういうのはなに塔って言うんだっけか。



「菅原神社拝殿修理工事記念碑」

 まあ、見ての通りの石碑。「昭和六拾年五月吉日」とある。例によって寄附者名は省略。


「慰霊碑」

 ここにも戦没者の慰霊碑があり。昭和60年あたりに競って建てたような感じが。裏面に戦没者名簿があるが、反射が酷くて読みにくいので省略。他の人名も例によって省略。しかし、ここでもブーゲンビルとフィリピンでの戦没者が多いな。



台座

建立の記
昭和二十年八月十五日終戦の昭
勅を拝し爾来四十有余年国民の
困窮耐乏の努力の結晶が今や世
界の経済大国にまで発展するに
至った。然しその陰に全国で二百
五十万我が重富で二十有余名の
若い命が犠牲になったことを同
じ町民として忘れることは出来
ない茲に戦友同志相計り町民一
同に呼びかけ菅原神社の庭に慰
霊の碑を建立し永久に敬仰の場
として恒久の平和を乞い願う遺
芳千秋○えられんことを。

所島神社の石造物

 こちらも由緒ありげな神社。お祭りの準備中だったので遠慮しながら撮影。


「慰霊碑」

 境内の西端にあり、さらにそこからは水田が広がっているので非常に目立つ。こちらは時間が下って平成七年。しかし、こういうところにも空爆の被害があるのか。例によって、発起人等の関係者は略。


正面

慰霊碑


 所島戦没者氏名
島本鶴喜  昭和十二年十月六日 南支 四十一才
江島善士郎 〃 十八年十月二十日 西南太平洋 二十八才
江島 博  〃 十九年一月二十七日 名古屋陸病 二十七才
江島 正  〃 十九年二月六日 南洋群島 三十才
西嶋治行  〃 十九年二月十日 台湾東方 二十九才
江島末年  〃 十九年六月三日 ブーゲンビル 三十三才
山内 實  〃 十九年十月三日 西南太平洋 二十三才
江島政行  〃 十九年十一月十五日 五島列島 三十一才
宮本憲雄  〃 十九年十二月四日 奉天陸病 二十一才
江島 勇  〃 十九年十二月十九日 台湾東方 二十一才
古賀 實  〃 二十年四月十三日 ルソン島 四十三才
西島仁之  〃 二十年五月十九日 台湾 三十九才
嶋村文雄  〃 二十年六月四日 南方海上 二十四才
島村 正  〃 二十年七月六日 ルソン島 三十才
西島親治  〃 二十年七月十二日 比島 二十九才
西島武男  〃 二十年七月三十日 比島 三十七才
島本友人  〃 二十年八月一日 ルソン島 二十三才
松山光成  〃 二十年八月七日 河北省 二十二才
島本 弘  〃 二十年八月二十日 湖南省 三十才
江島七平 日露戦争
嶋本フミ  昭和二十年八月一日 空爆死 五十一才
島本松恵  〃 二十年八月一日  〃  四十五才
島本ヤツエ 〃 二十年八月一日  〃  六才



台座

 建立の記
明治以来国運を賭けた数次の戦役殊に昭和に
於ける太平洋戦争に際して未開の大陸南溟の
孤島あるいは波濤万里の南海洋上に身を挺して
勇戦敢闘国家の安寧と郷党の繁栄隆昌を
念じつつも壮烈散華された英霊に対し町民一同
恭しく景仰の念と奉謝の誠を捧げ茲に一碑を
建立し慰霊の微衷を表します。
  平成七年十二月吉日


「所島神社拝殿新築記念」碑

 神殿の脇、垣で囲った中にある。「平成七年八月吉日」の年紀あり。例によって関係者略。


石神

 よく分からないけど、拝まれているようだ。

住吉神社の石造物

 社殿もない小さな神社。重富菅原神社から北に行った、東バイパスの手前。




今上天皇御即位為紀念槇樟二株」碑

 「大正四年三月建之 当村氏子中」とあるから、大正天皇の即位儀礼の記念のもののようだ。