トメ・ピレス『東方諸国記:大航海時代叢書5』

大航海時代叢書〈第5〉東方諸国記 (1966年)

大航海時代叢書〈第5〉東方諸国記 (1966年)

 一度目を通しておくべしということで読み飛ばした。
 今回は、16世紀はじめの段階でポルトガル人がコーヒー・茶・磁器にどんな認識を持っていたか、という点で読んだ。他にも関心の持ちようで、いろいろと情報が引き出せるだろう。ちなみに、コーヒー、茶に関しては全く記述なし。磁器に関しては中国産の「陶器」が何箇所かで言及されているが、特に興味がある対象ではなかったようだ。中国とは本書の著者のピレスが最初の使節として接触する状態だったから、中国産品についての情報・興味が少ないのは当然か。
 記述の濃淡が、当時のポルトガル人の興味・接触の状況をあらわしていておもしろい。最初に拠点を置いたインド亜大陸の西海岸については社会制度まで記述がある一方、反対側のコロマンデル海岸からビルマあたりまでは至極あっさりとした記述。中東方面でも、地中海方面から接触しやすく、また当面の仮想敵とされていたであろうマムルーク朝・紅海方面については詳細な記述。一方、ペルシャ湾岸では当時すでに影響下にあったオルムズ王国以外はほとんど記述なし。中東からインドへの軍馬の輸出についての記述が目立つが、やはり軍事がらみでポルトガル人の注意を引いたのだろう。ピレスが駐在し、実際に航海したスマトラ・ジャワ・香料諸島方面とマラッカ王国については、それぞれ一部が充てられ、記述も充実している。さしあたり、マラッカ王国の歴史の復元には興味がない。
 各地域ごとに、産する商品、輸入される商品が列挙されている。今回はそこまでしなかったが、メモを作り、相互の関係を見直せば面白いだろう。今回は、胡椒・丁子・ナツメッグ関係に付箋をつけただけ。しかし、想像以上に各種の香料・薬品類の品目が多い。竜脳や安息香などはともかくとして、カショとかプショとか、そもそもどんなものか想像が付かないものも結構多い。要勉強。あと、カンバヤを中心とする織物類の銘柄も多い。
 巻末の関連史料の紹介が非常に有用。16世紀の東方についてポルトガル人が書いた書物が多数解説されている。あとは、索引があれば完璧だったのだが。また、固有名詞がポルトガル語なので、いちいち現在日本で通用する名前に変換するのが大変。このあたり、対照表でもつくるかな。
以下、メモ。胡椒産地関係主体。

 この海域にはその後ポルトガルの残した悪影響――すなわち海賊行為――がひろがり、貿易は衰えていった。その後、この地方に支配権を確立するために行なわれた、たびたびにわたる遠征もほとんど所期の効果をあげなかった。一方1517年マムルーク朝オスマン・トルコに滅ぼされ、ポルトガルはその目標を失ったが、後にオスマン・トルコは紅海に進出して、周辺の諸国を支配下に収めて行った。こうした紅海とエジプトにおける情勢の変化と、ポルトガルによるアフリカ東海岸の諸港の破壊は、貿易圏の最も重要な部分を完全に破壊してしまったのである。p.15

巻頭の解説。家島彦一の『海が創る文明』だったかに、1530年代以降、紅海の貿易が復活した形跡があると指摘されている。また、16世紀後半にはレーンらによって、大量の胡椒・香料類がエジプト経由でヨーロッパに搬入されていることが指摘されている。本書が出版されたのが1966年であることを考えるといたしかたないことだが、ここは言いすぎ。

 胡椒はマラバルには約二万バールあって、シャトゥアからカヤ・コウラン王国にかけて産し、コウラン、クランガノールにも若干ある。そしてコシンは胡椒積荷のためのもっとも近い寄港地である。…クランガノールもコシンも国内では胡椒を産しないが、この二つの王国に接して住む領主たちがそれを集めて売る。コシン王国の領地に産するものが最良である。p.182

コシンは現在のコーチン。胡椒の産出量は1バール200キロで概算すると4000トンほど。1バール150キロだと3000トン。後者が現実により近いか。この産地の大部分がポルトガルの手によってヨーロッパに運ばれたのだろう。

肉桂は一般に一バールが一クルサドの価格である。バールはコシンのそれと同じで、三キンタル三十アラテルである[一六六キログラム強]。p.186

セイロンの記述。

 ケダは非常に小さい王国で、人口も少なく、家も少ない。それはある河を遡ったところにある。そこにはまた胡椒があり、毎年約四百バールに達する。この胡椒は、人々がパセーとぺディルからシアンを経由して運んできたもの[胡椒]といっしょにシナへ行く。p.216

マレー半島西岸、現在はマレーシアの最北端あたりになる。およそ80トンほどの生産量。この記述から、スマトラ北部を含む近辺の産の胡椒が、中国方面に流通していたことが分かる。

 そしてこれらの場所からパタネまで[の地域]では毎年七、八百バールに及ぶ胡椒を産する。p.219

こちらはマレー半島東岸。

その数をいいつくせぬほどの大量の陶器が来る。p.244

中国からマラッカに運ばれる商品の中の一節。当然磁器、染付などを含むだろう。ただ、ピレス自身はそれほど興味がない様子。

 ぺディルがかつて持っており、また今後戦争が終わってもとのようになった時に持つようになる商品は、毎年六、七千バールないし一万バールの胡椒である。昔は一万五千バールあったということである。… この四年間、ぺディルには一年に約二、三千バールの胡椒しかなかった。p.262

スマトラ島北端の港市。内乱で生産量が低下しているが、常態では900-2000トンの生産量。ずいぶん幅があるが、1000トン程度か?

パセーの商品 毎年八千ないし一万バールの胡椒がある。この島の胡椒はコシン産の胡椒ほど良質ではない。パセーのものは[コシンのものより]大きく、うつろで、永持ちせず、味も完全ではなく、匂いも良くない。p.269

これもスマトラ北部の都市。ぺディルと合わせて、北スマトラでは2万バールと、マラバル海岸に劣らない量の胡椒が生産されていたようだ。ただ、品質はあまりよくない模様。

(47)バルス、ティクー、プリアマンの三港は十六世紀の末から胡椒の集散地として重要な役割をはたすようになった。アチェー王国はこの地方に支配を及ぼし、役人を派遣して胡椒の貿易を厳重に管理した。p.289

注の記述。スマトラ西海岸の諸港について。16世紀後半にスマトラ中部まで胡椒の生産が広がったのだろうか?

 コシン[コチン]産のものより若干良質な胡椒が毎年一千バールも産する。また多量の長胡椒と一千隻もの船にのせるだけのタマリンドがある。p.299

ジャワ島西端のスンダ王国産の商品についての記述。この時期、200トン程度と少量の生産しか行なわれていなかったようだ。

(41)タエルtaelは中国の「両」に相当する秤量である。…
(42)Maz,cupom,cumderi.ヌーネスは、一タエルを十六マスとし、一マスを4クパンとし、一クパンを五クンデリンとしている。
(43)当時のポルトガルの秤量は次の通りである(Cortesao,?,277)。1quintal=4arrobas;1arroba=16libras;1libra=2arrateis;1arratel=1marco6onsa=14onsa;1onsa=8oitava;1oitava=72grao。またそれのメートル法による換算は次の通りである。(Nunez,pp.45-55の数値より算出した)。1quintal=51kg407g強;1arroba=12kg852g弱;1arratel=401.6g強;1onsa28.7g弱:1oitava=3.6g弱;1grao=0.05g弱。p.467-8

(53)ピレスの記述により、マラッカの秤量を表示すると次のようになる。
一 タエル(トゥンダヤ)=四十一グラム弱。一タエルは十六マス、一マスは四クパン、一クパンは二十クンデリである。
二 カテ――これは二種類ある。
  A 黄金を計量するカテ=二十タエル、817.6グラム弱。
  B その他の計算のためのカテ=二十三タエル、941グラム強。
三 バール――これも二種類ある。
  A 小バール――前記Bカテで二百カテ、188.201キログラム強。
  B 大バール――前記Bカテで二百五カテ、195.717キログラム強。p.470-1

重さの単位のメモ。