西村三郎『毛皮と人間の歴史』

毛皮と人間の歴史

毛皮と人間の歴史

 これからしばらく毛皮交易関連の本を連続撃破の予定。
 熱帯地域のプランテーション/モノカルチャー化を植民地主義的開発の本流とするなら、一方にヨーロッパ人に握られなかった世界商品のナマコがあって、反対の極に北方の毛皮交易の開発が位置づけられるだろうなという点で、興味深いテーマ。北アメリカやシベリアは、毛皮交易を通じてヨーロッパ人の世界システムに併合されたわけだし。漁業(含捕鯨)、毛皮交易の役割は確かにもっと追究されるべき問題なのだと思う。県立図書館の本棚を見ていて、なんか増えてきたのでちょっと手を付けてみようかと。
 一番手は、本書『毛皮と人間の歴史』。全体を対象とし、かつ一般向けで読みやすそうだったので。その割には結構読むのに時間がかかってしまったが。欠点としては、なんか歴史観が古い(中世暗黒時代観とか)。紙幅と言語的な限界のせいか中近東諸国の毛皮文化が扱われていないが挙げられるだろうか。どうしても日本人が「世界史」を描くときに、オリエント/イスラーム世界やインドがお留守になりがち。言語の問題というか、日本人による研究の蓄積の薄さが問題なのだろう。中国やヨーロッパに関する研究の厚みと比べると、差は歴然としている。そのあたりが残念。本書でも言及されているように、エジプトやメソポタミア古代文明から既に毛皮の文化が存在する、中近世のロシアの毛皮が中東方面に流れている。あるいは、トルコ系・モンゴル系の遊牧民が流れ込んでいるので、その伝統を継ぐ毛皮文化が発展したはず。といったことを鑑みると、オリエント/イスラム文明圏の毛皮文化というのも、考究の対象としては重要なのではないかと思う。
 そのような欠点を除けば、毛皮の交易や利用についての見取り図を得るには適切な本だと思う。


 最初の三章は先史時代と自然史的な記述。人類がいついつ毛皮をまとうようになったかを石器などの周辺の証拠から「完成型」ネアンデルタール人であると指摘。これによって寒冷地への人類の進出が可能になったとする。その後の人類の衣料製作の技術の展開について記す。毛皮から毛の使用、さらに植物繊維の使用と展開する。第三章は毛皮の技術や毛皮の原料となる動物に関して。ユーラシア、北アメリカの高緯度地域に毛皮獣が分布し、毛皮利用の文化もこの地域で発展したという。あと、個人的には、「なぜ人間が衣服をまとうようになったか」という問題については答えが出ないと思う。
 第四章は古代世界における毛皮文化の発展。エジプトやメソポタミアなどでは、ライオンなどの大型肉食獣が力の象徴とされ、調度や衣服のモチーフとなった。その関連で、毛皮が交易などを通じて集められ、利用された。また、宗教儀礼には毛皮をまとったものが多かったらしい。また、中国やギリシア・ローマでも毛皮は、さまざまに利用された。
 第5章は中世期。ヴァイキングの毛皮貿易、ヨーロッパにおける衣服の贈答慣行(家臣への毛皮の服の贈与)による需要、毛皮関連のギルドの発展、ノヴゴロドにおけるロシア産毛皮の貿易などを中心に、中国方面の朝貢品としての毛皮や毛皮の利用などについて。第6章は、16世紀以降のロシアのシベリアへの拡大と、それが主に毛皮の入手とそれによる国家財政の強化のためであったことが解説される。また、毛皮入手のために先住民が蹂躙された状況も…
 第7章は北アメリカ大陸における毛皮交易とヨーロッパ人の入植に関して。フランス人とハドソン湾会社が印象的。毛皮を入手しようとする欲望が、ヨーロッパ人・ロシア人の高緯度地域への拡大をドライブした。それがなければ、この地域を開発しようとする欲望は生じなかっただろうなと思う。その点で、世界システム上での重要性は大きい。毛皮資源の開発という目的がなければ、北アメリカ大陸の開発・西部への進出そのものが、ずいぶん遅れただろうな。あと、先日読んだ『鉄路17万マイルの興亡』においてカナダの鉄道敷設の問題が取り上げられていたが、これが毛皮資源が枯渇して、毛皮貿易が下火になった後に起こるというのは、何らかの関連があるのだろうか。そう言えば、「シートン動物記」中に、『森のロルフ』asin:4081330085という作品があって、これは少年ロルフがインディアンに導かれながら森での生活のなかで成長していく物語だが、彼らの生業に罠猟が多く描写されているように記憶している。彼らの生活も、毛皮交易という世界の流れの中に位置づけるとより興味深いと感じる。
 第8章は、清朝北辺地域の毛皮貢納やサンタン貿易、ロシアと清朝満州北辺・シベリア地域での対立と毛皮貿易、ロシア人のアメリカ大陸進出とラッコやオットセイの乱獲。
 最後の第9章は日本での毛皮や皮革の利用。日本史では皮革の利用が先に来て、毛皮に関してはあまりかかわりないような感じだと思っていたのだが、毛皮を結構消費している。古代の王朝期のファッションとして、あるいは武士の馬具や武具の装飾として。渤海との交易やあるいは朱印船貿易での東南アジアからの鹿皮の輸入などは著名だが、近世にも海外から大量に皮革や毛皮が輸入されていたというのは興味深い。また、この問題に関しては、被差別部落との関係と切り離せないが、こちらもずいぶん紙幅が割かれている。
 改めて、世界史のドライブ要因として、毛皮の役割の大きさは印象的だな。スペインやポルトガルの活動が「金と香辛料」にドライブされているのに対し、北アメリカとシベリアの植民地主義的拡大は毛皮交易にドライブされた。そう考えると、非常に大きい問題であるように感じる。自然資源への依存から、比較的早くに枯渇し、産業革命以後の時代には存在感を失ったことが、経済史的に軽視されてきた原因なんだろうけど。あるいは、自然資源の収奪という性質自体が、生産についての分析を主とする経済史の方法論と相性が悪かったとも考えられる。


 以下、メモ:

 ともあれ、非常に早い時代からギリシア商人たちの手によって、ユーラシア北部の深い森林地帯原産の毛皮がはるばる地中海文化圏にまでももたらされていたようである。多くの種族・部族の手を経由し、複雑なルートをたどったことを考えると、さだめし高価で貴重な品物となっていたことだろう。それらの毛皮が母市もしくは他の植民都市のギリシア人社会で享受され、消費されたのかどうかは、残念ながらわからない。商人たちの手でさらに他の国々へ転売されたのかもしれない。いずれにせよ、前六世紀-五世紀という時期にすでに毛皮が高価な商品として、多くの仲介をへながら遠距離交易されていたという事実は、単に商業史のみならず、広く人類活動の歴史という視点から見ても注目されてよいと思う。p.94-5

 ラピスラズリとか、本当に早い時期からこういう交易ルートは存在したのではないだろうか。

 もちろん、漢人たちはこれら当方の夷人とじかに接触してこれらの物資を手に入れていたわけではない。鮮卑高句麗など、中原により近く位置していた部族あるいは部族国家を経由して、入手していたのである。鮮卑高句麗人たちは、さらに僻遠の地に住んでいた未開部族から徴収して、これを中国へ納めたのだった。その徴収方法というのが面白い。いわゆる沈黙交易と呼ばれるやり方で、時代がすこしあとになるが、六朝期・宋の劉敬叔がテン皮について記した次の記事がまさにそれを物語っている。p.106

 うーん、「沈黙交易」は実在が疑わしいと言われているんじゃなかったっけ。この史料も伝聞情報みたいだしな。

 そのズボンは、ぴったりとフィットする長ズボンだった。マントと併用することもあったが、労働や狩猟の時などはズボンだけで上半身裸というのも普通だったようだ。やがて、マントの下に肌着として、やはりウール地またはリンネル地の、短くてぴっちりしたチュニックをつけるようになったのは、ローマ人からの影響だろうか。さきに、ローマ市民のファッションが蛮族たちの服装の影響を受けて変化したことを述べた(102ページ)が、ゲルマン人たちは、それ以上に大きな影響をローマ人から蒙ったのである。
 一方、ゲルマンの女たちは、踝までもある丈の長いスカートをつけていた。男と同様上半身裸のこともあったが、両肩からマントをはおることもあった。これらのスカートやマントも当初は獣皮かラシャ製だった。ウールまたはリンネルの、丈の短い袖なしのテュニックを着るようになったのは、男性の場合と同様、やや後のことだったらしい。p.110

 他の土地でもそうだけど、古代の人間って意外と服を着ていないよな。服飾の感覚の変遷というのは本当に分からないものだ。→女性がほとんど裸体に近い格好で生活しているような民族というか部族がアフリカなどに存在しますが、そこに属している男性たちはどのような性的志向を持ち、どのような性生活を送っているのでしょうか?

 すべての<森をゆく人々>がそうだったというのではないが、じつは、彼らにはいまひとつの顔があった。それは奴隷商人としての側面である。インディアンとヌーヴェル・フランスの白人のあいだのトラブルまたは衝突、あるいは対立するインディアン部族間の戦争によって捕虜になったインディアンが、当時セントローレンス河谷や五大湖地方に多数存在して、それぞれの社会の最下層民として使役されていた。クルール・ド・ボワたちは彼らを連れ出したり、誘惑したりして、ニューイングランドあたりの植民者へ売り飛ばしたのである。毛皮よりも儲けが大きかったので、狩猟は二の次にして奴隷売買に精を出すものがあとを絶たなかった。フランス国王はしばしばインディアン売買禁止法を出したが、ほとんど実効はなかった。北アメリカにおける奴隷の歴史というと、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が話題の中心となっているが、先住民のインディアンもおおぜい、ニューイングランドや南部、さらに遠く西インド諸島へ売られ、プランテーションや牧場、鉱山、一般雑務などに使役されたのである。p.214-5

 ヨーロッパ人のフロンティアというといつも奴隷制だな。まあ、地元の社会にも奴隷制は存在したわけだが。このあたり池本幸三他『近代世界と奴隷制asin:4409590014を参照。まあ、白人も奴隷とされたりしたようだしな…

 応神天皇二十二年(二九一)九月、天皇自らが淡路島でおこなった狩りをはじめとして、『日本書紀』には朝廷によるそうした狩猟の記事が頻出する。とりわけ雄略天皇二年(四五八)十月、大和の御馬瀬でおこなった狩りのあとに天皇が、「猟場ノ楽ハ膳夫ヲシテ鮮ヲ割ラシム、自ラ割ラムニ如何ニ」とおおせられたと記してあるのは、猟のあとで獲物の肉を膾として一同で食した様子がうかがえて、興味深い。のちの時代と異なり、当時の日本人は鳥獣の肉、しかもその生肉を食うことにさえまったく抵抗がなかったようで、むしろそれを楽しみとしていたようだ。肉を食うために獲物を解体すれば当然、毛皮・その他の部分が残る。これらの部分ももちろん余すところなく利用されたものと思われる。p.305

 野生の動物の生肉を食うとは、寄生虫の危険があるだろうと思ったが、当時は関係ないのかな。奈良時代あたりのトイレの遺構から採取した土を分析すると寄生虫の卵が大量に見つかったりする状況だしな。普通にみんな寄生虫を飼っていたんだろうな…

 江戸時代には、ほかにも、さまざまな形で皮革製品が庶民の生活のなかに入り込んでいった。小物を入れて持ち運ぶために以前から革嚢は使われていたが、江戸の人々は皮製の袋物をことのほか愛用した。巾着、守り袋、煙草入れ、烟管袋、鼻紙入れなどなどである。羅紗製、更紗製のもあったが、金粉を膠で溶いて押刷した金唐皮、種々の絵や模様を染めなした絵皮、凹凸の紋をつけた紋小豆皮など、皮革製のものがことのほか愛好された。さらに、外国産、もしくはそれを模した皮革を使ったものが庶民たちの関心をひくこともまれではなかった。たとえば、黒聖多黙皮(サントメはインド西海岸にあったポルトガル人の植民地の名で、そこから舶来した黒いなめし皮)、紋百爾斉亜皮(ペルシア産で、凹凸の紋のある皮)、新もすこうべや皮(モスコヴィアすなわちロシア原産の子牛の着色なめし皮、誤って、うすこうべや皮の名で呼ばれることもあった)などを使った製品である。これらの外国渡来の染革は、牛、子羊、水牛、鹿、ラクダ、ロバなどから製されたもので、オランダ人と中国人が長崎を経由して持ち込んだ。舶来品であるから当然値が高い。そこで国内でそれらを模造した品がさっそく姿を現した。
 このように、江戸時代中期ともなると、国内産ばかりでなく、海外からも多くの皮革が輸入されるようになった。そうした舶来皮革は、東南アジアやインドからだけでなく、遠くモスコヴィア(ロシア)やオランダ、スペイン産のものも、ヨーロッパ−ケープタウン経由でわが国へもたらされたのである。それらは生産国の特徴的ななめしおよび染色方法によって製造された、それぞれ個性のある皮革製品だったが、それとは別に、徳川期の日本は、なめしてはいるがまだ染色していない、半製品ともいうべき皮革を大量に輸入していた。鹿のなめし皮である。ひと口に鹿皮といってもその内容は多様で、東南アジアやインド産の種々の鹿類のほかに、南アフリカ・ケープ地方のスタインボックやエランドといった羚羊類の皮も含まれていた。これらの鹿皮は、わが国の職人によって加工・細工されて、皮羽織や皮袴、皮半纏、足袋、履物の鼻緒、鎧、さらに刀や鉄砲を覆う袋、手袋などへと仕上げられて人々の需要に応えたのである。p.345-6


 貴重な毛皮資源が汎世界的に減少し、枯渇化しつつあるのならば、需要の高い種だけでも、単に自然から収奪するのにとどまらず、人の力で積極的に増殖され利用しようという動きが出てくるのは、当然だろう。すなわち、養殖である。商業目的で毛皮獣の養殖がはじまったのは一八六五年頃のことで、北アメリカにおいてだった。当時毛皮の需要がもっとも高かったこの地で養殖が開始されたのは、けだし当然といってよい。まずキツネ、ついでミンクが成功した。野生のものは、なわばり争いによる傷や栄養状態、それに捕獲のさいのいたみなどで、完璧な毛皮を得るのはむつかしいが、一匹ずつ隔離して飼育したものでは、飼育条件さえ注意すればほぼ完全な毛皮を得ることができるという有利さもある。こうして、毛皮獣の養殖はその後急速に世界中に広まることとなった。p.361-2

 意外と遅い時代だなと思った。動物の養殖は植物とくらべて難しいということか。あるいはこの時代にいたるまで養殖をおこなうインセンティブがなかったのか。

 それは、つまり、人が動物の毛皮を身につけるということは、それが野生状態で捕獲されたものであるか人為的に養殖されたものであるかにかかわらず、ひとしく動物の生命を犠牲にしてはじめて成立する行為にほかならぬという基本的な認識に立脚している。生きていくために毛皮をまとうことがどうしても必要な場合はともかく、装飾やファッションのために他の動物の生命を奪うことは避けるべきであるというのが、その運動の推進者たちの主張だ。p.364

 毛皮に負の印象がつくことは史上何度かあったようだが、今度のはどうなるであろうか。まあ、間違ってはいないのだが。ミンクやキツネは、毛皮にしか用がないわけで。ただ、他の皮革製品、皮のバッグなども命を奪って材料を調達していることには変わりないように思うのだが。そのあたりどうなんだろう。エルメスとか…