大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話:作られた「アメリカ建国」』

ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」 (講談社選書メチエ)

ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」 (講談社選書メチエ)

 アメリカ合衆国の起源として「神話」化されたピルグリム・ファーザーズとプリマス植民地について、前半では史実をまとめ、後半はなぜ「神話化」されたかを追及している。名前だけは有名だけど、詳細はあまり知らないので、興味深い。
 イングランド北部のピューリタンの分離派(英国教会との関係を一切断つ立場のセクト)の一集団が、迫害を逃れ、オランダに移住。オランダでの生活に行き詰まりを感じた集団は、新大陸移住を企て、ロンドンの資本家と交渉し、株式会社を設立、入植の「パテント」を入手する。このために分離派集団側は、法外な条件を飲まされ、かつメイフラワー号に乗船した入植者の半分程度はイギリスで集められた「よそ者」という状況になった。市民契約の原型とされる「メイフラワー・コンパクト」は、分裂含みの入植者集団に反乱の危険があったため、それに対処する必要から作られたと指摘する。
 第二章は、プリマス植民地の展開でを描く。政治機構の整備や牧師の問題、英国の投資家との関係や借金の返済について。第三章はプリマス植民地の犯罪や、クェーカー教徒迫害、先住民との戦争、そして植民地の分裂とマサチューセッツ植民地への併合という結末を描く。プリマス植民地の人々も普通の集団と変わりなく、理想通りにはいかなかったという指摘。イギリス本国の政治の変化、ピューリタン革命、その後の王政復古、さらに名誉革命という変転に伴って、一時は王領地となるなどの状況の中で、500人程度の小規模植民地であるプリマス植民地は、ニューイングランドの中に呑み込まれていく。
 後半は、このように必ずしも華々しい成果を上げたわけではない小植民地であるプリマスが、どのようにしてアメリカ合衆国の建国の「神話」を担うようになっていったか。その背景を探っている。独立したプリマス植民地は1691年に消滅するが、その後、18世紀半ば以降、プリマス・ロックの命名や上陸記念日などの過去を顕彰する動きが起こるようになるが、これはプリマス内の地域的なものであった。これが19世紀にはいる頃から変化していく。18世紀末には、「ピルグリム」という概念が拡張され、マサチューセッツも含む形になり、ニューイングランド全域で上陸記念日が祝われるようになる。また、19世紀にはいると西部への開拓が進展し、東部のエリートが国家を指導する状況から、西部主導でジャクソンが大統領に当選し西と東の対立が深まる時代に、国民統合の象徴としてプリマスの歴史が求められるようになったこと。また、感謝祭に関しても、南北戦争の中で国民統合のために、出現したことが指摘される。国民統合の象徴としては、弱小で、それゆえに生臭いところがあまりないプリマス植民地が適していたという。また、「第二次大覚醒」という宗教運動の拠り所としても、プリマス植民地のピルグリムたちは見られた。ある意味では、判官びいきのような考え方でプリマスピルグリム・ファーザーズに共感が集まったというのが興味深い。
 アメリカ大陸って、さまざまな植民地や国家が激しく離合集散して形成されているから、それを追うだけでも、複雑でおもしろい。先住民の迫害を考えると、良い気分にはなれないが…


 以下、メモ:

返済は毛皮頼み
「請負人」たちは毛皮交易によって借金を返済しようと、なみたいていでない努力を続けた。
 ここで毛皮というのはおもに、ビーヴァーの毛皮であり、当時ロンドンでは、それを乾燥させたもの(ベルト)から帽子が作られ、大変な人気商品として珍重されていた。その原料であるビーヴァーはかなりの価格で取り引きされたばかりでなく、あの可愛らしくも勤勉な動物は動きが鈍く捕獲が簡単だった。
 アンダーテイカーたいはプリマス植民地の南にあるマノマット川のアプタクセットに毛皮の交易所を建設し、常に二人の人間がそこに滞在してインディアンから毛皮を手にいれていた。こうした毛皮交易からはかなりの利潤が確保できた。しかし、その障害となる男がいた。メリーマウントに定住していたトーマス・モートンである。
(中略)
 ところで毛皮をインディアンから買い取るさい、イギリスから持ち込まれたさまざまな日用品が交換物資として使われたが、それとは別にインディアン部族同士で流通していた貝殻の流通貨幣ワンパンが有効な手段であった。
 1627年以来、プリマス植民地はニューアムステルダム(現在のニューヨーク)のオランダ植民地から、ワンパンを買い取り、それをケベック川近辺のアブナカキー族との交易にもちいて、安く大量の毛皮を手にすることができた。その意味でオランダ植民地との有利な関係を保持することができたのだが、これにはビーヴァーがもっと豊富に生息するコネチカット川流域にプリマス植民地が進展することを防ごうとするニューアムステルダム側の政治的意図があった。さらに、インディアン同士の通貨であるワンパンをプリマス植民地が自前で調達することも防ぐという巧みな駆け引きも背景にあった。
 こうして確保された毛皮は本国に送られるが、その途中で海賊の襲撃にあい、すべての商品が無に帰したことが二度も起こっている。最初の事件はフォーチュン号に積まれた大樽二つ分のビーヴァー・ベルト、推定額400ポンドがフランスの海賊に奪われてしまった事件である。また、1625年にはリトル・ジェームズ号によって運ばれていた500ポンド相当の毛皮がトルコの海賊に強奪されている。
 しかし、初期のこのような事件にもかかわらず、ロンドンとの関係を清算した後に、植民地はこの毛皮交易によって膨大な借金の返済を成し遂げたのだった。p.71-2

 結びつけて考えなかったけど、植民地建設の初期投資はこうして賄われたんだだな。そう考えると、毛皮の重要性は一層高いというか。農耕主体の植民地からどうやって収益を出していたのか不思議だったんだよな。もっと南なら、プランテーションが有名だけど。もっと北では漁業が重要だったのだろう。

 プリマス植民地は、その印象深いさまざまなエピソードとは裏腹に、実際はアンチクライマックスな展開をたどり、1691年には隣のマサチューセッツ湾岸植民地に吸収され消滅してしまう、ということを前章までで述べてきた。この点について、ブラッドフォード著『プリマス植民地について』の編者であるサミュエル・エリオット・モリソンは「どのようにみても、プリマス・コロニーはイギリスの植民地のなかで、さらにニューイングランドの植民地のなかでみても、もっとも小さく、弱く、そしてその重要性においても、もっとも重要でない植民地である」と述べている。p.108

 せいぜい500人くらいの植民地だしねえ…

 一言でいえば、これまでの筋目正しいインテリのエリートが作りあげてきた理論としての民主主義にたいし、それをさらに先鋭化し現実的な運用がなされていた西部の民主主義が台頭してきた。いわゆるジャクソニアン・デモクラシーの時代がやってきたのである。
 西部開拓によって勢力を強めてきた「デモクラシー」は一種の過激思想ととらえられ、それに対していかに東部の統一を保つかが大きな課題となってきた。いわば、南北対立よりも、東西対立の局面こそこの時代の政治地図を形作っていた大きな問題であった。
 政党的にいえば、リパブリカニズム対ジャクソニアン・デモクラシーの対立である。過去をもつ東部の海岸沿い諸州と、過去をもたず未来にかける西部との乖離はしだいに深まった。東部のエスタブリッシュメントは、西部開拓によって勢力を強めてきた「デモクラシー」のありかたに体制をゆるがす危険な兆候を感じ取っていた。分裂を回避し新たな国民的統合の象徴が求められねばならない。
 東部の共和主義者からみれば、アメリカ独立革命はことさら輝かしく、名誉にみちた歴史である。しかし西部で発展しつつあるデモクラシーがさらに広まり過激化して、ふたたび革命が起きるようなことがあってはならないのである。その意味でいたずらに独立革命における英雄を神格化することは抑えたい。
 当時、独立戦争はいまだ語るには近すぎる過去であったし、一方、植民地時代にさかのぼるにしても、マサチューセッツ湾岸植民地の過去には、1692年の魔女裁判事件やクェーカー教徒処刑などの語りにくい過去、あるいは隠された過去があった。
 やはり神話にはピルグリムのほうがふさわしい。p.125-6

 統一維持のための神話が必要であったという話。しかし、「過去を持つ」といっても、200年くらいだしなあ。

 ロングフェローホーソンにかぎらず、この当時のアメリカ文学の中心を歴史小説がしめ、1820年代には出版物全体のなんと85パーセント以上が歴史を題材にした作品であった。文芸誌上では盛んに建国を物語るエピック(叙事詩)とそれを書く国民詩人の必要性が説かれ、その題材には何がふさわしいかが熱く論じられていた。なかにはコロンブスの「新大陸発見」、あるいはインディアンの過去を国民的叙事詩とすべきだという意見もあったが、実際にはニューイングランドへの植民が関心を集めていた。
 つまりニューイングランドの作家や詩人たちは、「役にたつ過去」(Useful Past)を使って、いかに文学的な国民意識(literary nationalism)を作り上げるかという課題を背負っていたのである。アメリカ文学といえば、R・W・B・ルイスの『アメリカン・アダム』が描くように、未来を前に、過去を持たない主人公が活躍する作品が多い一方、このように文学の領域での歴史意識は支配的だった。独立革命から1850年代のアメリカ文学作品の背景を調査したハーヴァード大学のローレンス・ビュエルが「アメリカが国家として動き出した初めの一世紀は実に歴史的意識の時代であった」と述べているのはこうした風潮を総括しているのである。
 以外な感じがするかもしれないが、アメリカは未来志向だけの国ではない。むしろ国民的統合のため、過去にたいして熱い思いを持つ国なのである。p.127-8

 どこでもそんな状況なんだな。国民国家に奉仕する文学。歴史学もそうだったわけだが。

 さて、最後にどうしても無視できない人物がルフス・チョウト(1799年-1859年)である。彼は文学者でも文芸批評家でもなく、本業は政治であり法律であった。しかし、この当時のアメリカではよくあるように、法律家は現在では畑違いと思われる領域についてさまざまな発言もし、大きな影響もあたえていた。
(中略)
 1833年セイラムで行われた演説には、「(スコットランドの小説家、サー・ウォルター・スコットによる)ウェイヴァリー小説のようなロマンスの連作によってニューイングランド史を解き明かすことの重要性」という長い題名がついている。この27ページにおよぶ論文のなかで歴史作家は何を題材にすべきかという、この当時盛んに論じられた問題をとりあげているばかりではなく、実際の歴史をどのように扱うかといった方法にまで論を進めている。それを一言で言えば、歴史から役立つ部分だけを選択することの必要性を訴えているのである。


 クェーカーに対する迫害、ロジャー・ウィリアムズやハッチンソンに関する論争、絶えず開かれた宗教会議、かつて行われた教会の監視、こうした事柄は読むにはあまりにも退屈であり、人の感情を損ない、疎外させてしまう。たしかに、それらは真実であり事実である。しかし、知りたいとは思わない事柄であり、知ったところで特により賢くなるわけでもない。さて、歴史ロマンスを書こうとする作家は多くの雑多な素材から選択しなければならない。彼は、わたしたちを連れ戻そうとする時代が英雄の時代であり、その時代の思索にわたしたちを立ち返らせることを覚えていなくてはならない。英雄も近侍の人にはただの人であるように、全ての真実が記録された時代は英雄的ではありえない。それゆえに、作家は役にたつ事実のみを記録すべきである。いうなれば、麦とワインと油とを穀物容器に入れ、残りのすべては腐らせ燃やしてしまうべきである。さらに言えば、作家はたしかに真実を述べるべきである。しかし真実のすべてを語ることはない。それをすれば、混乱と不調和が生じてしまう。


 このように、恣意的に選択したうえで、愛国心を育む国家神話として、あるいはナショナリズムの記憶装置としてピルグリムの「歴史」が文学作品として描かれねばならない、と彼は主張したのである。
 チョウトの発言に、プリマス神話の形成がなされるときの背後の意図が透けて見えている。自発的で自然な感情の発露としてピューリタンなりピルグリムが語られるのではなく、初めに求められる形の愛国心とか、人間像があって、その形成のために恣意的に歴史を使うべきである、という思想がストレートに述べられている。いわば、プリマス植民地の歴史が意図的に利用されようとしていたのである。そして、実際その文脈にのっとって神話が形成された。p.141-3

 「新しい歴史教科書」ですね、わかります。
 これはひどい。完全に偽史の勧めじゃないか。記述をする上で、情報の取捨選択は避けられないことではある。しかし、上のような前提で作られた話は底が浅いものしかできないだろう。

 ピルグリムの物語は国民的合意の形成にきわめて便利な神話であった。あるときは政治体制が、またあるときは社会が、そして宗教が、それぞれの時代にとって求められるべき姿としてこのストーリーを過去から呼び出してきた。
 プリマス植民地の営みには勝ち誇ったところや、大成功したところがなく、かえってその志にもかかわらず消滅していったところに同情と共感が集まる。その歴史には、自己犠牲、苦難と忍耐のはての傷だらけの達成、ささやかな、しかし高邁な出発、理想主義のもつ健気さ、など、だれにとっても共感をあたえうる要素が満ちあふれている。ことに移民の国アメリカでは、後に続く移民のだれもがピルグリムとある意味で類似した追体験してアメリカ人となっていったのだから。p.172